『猿と女とサイボーグ』

 

 

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版
 

 

この本は滅茶苦茶難しいんだけど、とても繊細で力強い。

とくに、レーガン政権下の1985年に書かれた「サイボーグ宣言」。

そのなかでハラウェイは、オードリー・ロードの提出した「シスター・アウトサイダー」という概念を自分なりに解釈して、次のように述べる。

 

『私の政治神話では、シスター・アウトサイダーとは、米国の女性労働者や女性化された労働者(注 ここでハラウェイが「女性化」というのは、情報産業化によって男性労働者の状況も不安定化したことを指している)から、彼らの連帯をはばみ、安全を脅かす敵としてみなされることになっているような米国国外の女性である。(p334)』

 

『性産業や電子部品の組み立てに雇用される若い韓国女性は、高校から採用され、その段階で、すでに集積回路向きの教育を受けている。(同上)』

 

共同体内的な「連帯」の可能性をはばむ「敵」としてみなされるような、サイボーグ(境界横断・侵犯)的な他者の存在のありよう(現実)にこそ、レーガン政権時代に顕在化した高度情報化社会(シリコンバレー)とグローバル支配体制に抵抗していく方途を見出すべきだということを、すでにハラウェイは見切っていたのだ。

当時、その「現実」は、米国や日本のグローバルハイテク企業によって搾取される、東南アジアや韓国の女性労働者に、もっともよく示されていた。

この「シスター・アウトサイダー」が体現する「サイボーグ」的な生存と闘争に関して、ハラウェイは、さらに次のようにも書く。

 

 

『一例を挙げるなら、新世界のメスティーソという「非嫡出」人種の母であり、ことばの達人であり、コルテスの情婦でもあった土着の女性マリンチェの物語りを語り直すことは、メキシコ系の女性たちがアイデンティティを構成していくうえで格別の意味を持つ。チェリー・モラガが『戦いの時代における愛すること』で探るのは、アイデンティティというテーマ―すなわち、起源の言語を有したことも、起源の物語りを語ったことも、文化の園の正統的へテロセクシュアリティという調和に身を置いたこともなく、したがって、アイデンティティの基礎を、神話や無垢からの堕落、そして母のものであれ父のものであれ自然な名前を有する権利に置くことができないような場合に、いったいいかなるアイデンティティを想定しうるのかというテーマ―である。(中略)モラガのことばは、「全体」ではなく、意識的に接合された、英語とスペイン語という征服者の言語のキメラである。しかし、有色の女性にとってエロティックで使い手のある有力なアイデンティティを紡ぎだすのは、違反以前の起源言語を主張することのない、こうしたキメラとしてたち現われる怪物(モンスター)である。シスター・アウトサイダーが喚起するのは、世界が生き延びてゆく可能性であり、こうした可能性があるのは、彼女が無垢だからではなく、彼女が境界上を生き抜く能力を持ち、起源の一体性という基底神話―無垢かつあまりに偉大な母、すなわち息子による今一つの搾取の螺旋から最後の最後になってようやく解放される母になるという、男性/人類が想像してきた死に至る一物性への最終回帰という黙示録がいやがうえにもつきまとうような神話―に依拠することなく書く能力を身につけているからである。(p336)』

 

 

ずいぶん色々なことが包含されている文章だと思うが、何らかの「起源」や「自然」という一体的なものに回収されることなく、あくまで「生き延びてゆく」ことというメッセージを、サイボーグという異種接合の生のイメージによって伝えようとしていることに、とくに心を打たれる。

また、僕は、このくだりを読んで、同時代に書かれたジャン・ジュネの『恋する虜』(86年)を思い出した。新自由主義レーガン政権の「スターウォーズ」構想とが世界を覆いつつあったこの時代に、母と息子の物語の呪縛からの、つまり、ハラウェイの言う「死に至る一物性への最終回帰」という仕組みからの離脱が、複数のテクストの上で試みられたことは偶然だろうか。

そういえば、ジュネとハラウェイは、どちらもアンジェラ・デイビスと強いつながりがある。