- 作者: 石牟礼道子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2018/03/11
- メディア: 文庫
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石牟礼道子のこの本は、20年以上にわたって書き継がれた10篇ほどの短い文章からなっているのだが、その中でも「天草島私記」と題された作品は、とびぬけて高い達成を示していると思われる。
そう言えるのは、この作品では、語り手でもある書き手と、対象との距離感が、本書中の他の作品とは明らかに異なっており、書き手である(恐らく)石牟礼自身の狂おしい情念のようなものが、文章に反映されているからである。そのため、この本の他の文章にはみられる、「近代VS非(前)近代」、「市民(プロレタリア)VS民衆(農民)」、「政治VS生活」といった平板な二分法(それらはナショナリズムにたやすく回収されていくものだ)が、ここではその影を薄めることになっていると思う。
この、悩ましい情念の噴出をもたらした重要な契機は、石牟礼の出自にかかわる天草の困窮した農民たちが、江戸末期に南九州の山地に移住してきたという事実への、作者の想像だ。
天草の西海岸をとおって来て“九州本土”に入ると、土のほぐされている深さ、やわらかさがちがう。色もちがう。毛のような草の生える畳半枚ばかりの畠にも、潮の来ぬ間に通る渚の磯道にさえも甘藷や麦を作っていて、それでも人間を養う地(くだ)の足りない天草とは、せつないほどに土そのものがちがうのだ。山から海までの間に広い地(くだ)があることからしてなんという驚きであることか。ここでは草の色さえ、噛めば青汁がほとばしりそうに柔らかくゆたかな色をしていることか。山坂のわきに生いしげる樹々や羊歯の葉や、岩の苔さえも恵みの神の宿った聖なる苔に見えたことであったろう。よか地じゃ、見かけからして天草の痩せ地とはちがう、と思い思い、重い荷物をゆすり直して、登って行ったにちがいない。(p136〜137 「天草島私記」)
このあたりから、石牟礼の文章は、彼女自身の表現を借りれば、憑依的な色合いを帯びていく。
その想像と情念が頂点に達するのは、幕末の弘化一揆の首謀者として獄門に処せられた 或る人物の跡をたどるくだりにおいてだ。
法界平等利益、とは刻み深く、ひろがり無限の文言ではある。その文言の下に彼自身がひらいて見せた現世の凄相をわたしどもは見なければならない。(p167 「天草島私記」)
わたしが生首になって山の方を向かせられたとしたら、魂の眼(まなこ)を項(うなじ)の後に生やしてでも海の方を向く。(p169 「天草島私記」)
そこから、石牟礼は、過去と現在(水俣)とをつなぐ、民衆の抵抗と生命への愛着の根源を見据えていく。それは、たんなる近代批判を越える、内在的で普遍的な生へのまなざしと呼ぶべきものだ。
弘化の天草一揆衆は徳政という言葉で何を訴えたかったのか。幕藩体制の崩壊を受けて、「御一新」を指導した近代的エリートたちが、それを幕藩時代の役人たちより正しく理解したとはとても思えない。前近代の民の訴えたかった心情を、近代社会はさらに棄てて顧みない。それはなぜなのか、どのように捨てて来たのか。永年にわたる自己の疾病のようにこだわり続けてその極限に水俣のことがある。(p170〜171 「天草島私記」)
土地は海と共に、生命の母胎であると共に魂の依る所であり、いわば彼らの一切世界そのものであったろう。それを銀主から奪われるというのは世界そのものを失うようなものであったろう。
ここでいう世界とは、下層農漁民たちが夢見うる至上の徳と情愛と、理(ことわり)とが渾然一体となった神仏の如きものが宿る深所、そこに魂をあずけて、共に統べられると思える依り代として、経済基盤の今一つ奥に至る現世の足がかり、手がかりとして土地は観念されていたに違いない。(p171 「天草島私記」)