『野火』

先日、塚本晋也監督の映画『野火』を、やっと劇場で見た。
この映画は、内外で高い評価を得ているようだが、実際に見て、期待にたがわぬ内容の作品だと思った。


ネットで検索すると、多くの感想記事を読むことができる。僕も、10近くの記事を読んだが、僕が感じたようなことは、それらの記事に大方書かれており、また教えられるところも多々あった。
ただ、それらを読んで、ちょっと気になった点もある。
それは、この映画に対する、特に肯定的な評価のなかに、戦場で人体が激しく損壊したり、人間によって食べられたりするシーンの強烈さに、大きな衝撃を受けた、という声が多かったことだ。
これは、映画の受け取られ方としては、ちょっとどうかなあと思う。
このような手法は、戦争の残酷な実態を隠し、美化して描こうとするような最近の風潮(そうした風潮が、戦争容認へと突き進んでいるかのような今の社会の雰囲気と、どのように関係しているのかは、はっきり分からないが)に対しては、「戦争のありのままの姿を伝える」という意味を持っているかもしれない。実際の戦争で起きることは、これと同じどころか、はるかに凄まじいものだったろうと思われるからだ。
実際、塚本監督自身も、自分の表現は現実の戦争の凄惨さにはとても及ばない、という意味のことを語っておられたように思う。戦争体験者の証言に接してみての、率直な感想であろう。だが、そう思っても、戦争の実態を伝えるためには、ああした表現を用いざるをえない。監督の思いをそのように捉えるなら、ああした特殊効果による表現にも、積極的な意味があると思われる。
だが、そうだとしても、そこで表現されるものはあくまで「戦争の実態」、「戦争の残酷さ」の、ごく一部であり、その近似表現のようなものに過ぎないであろう。
むしろ、冒頭部に始まり全編を貫いて描かれる主人公と兵隊たちの彷徨の姿や、軍隊組織の責任なき崩壊ぶり(それはまさに、今の日本社会の在り様と重なるものだ)、また映画に引き込まれるうちに人間を食べるために殺すという行為も、当たり前のこと、やむをえないことのように思えてきてしまう、観る者の倫理的瓦解の実感などこそが、この映画が伝えている恐るべき「戦争の実態」「怖さ」の本質ではないのか。
残虐シーンは、もちろん小さな一部とはいえないが、あくまでこの全体の中に置いたときに、その真のメッセージを放つものだと思う。
それが、それ自体としては、スプラッタムービー一般やお寺の地獄図絵と変わるところのないような(だからといって、表現としての価値が低いということではないが)「残虐」場面だけに注目が集まり、それをもって「戦争の怖さを実感した」というのでは、ちょっと受け取り方が表面的すぎるのではないだろうか。
これは、この後に書くことにも関係するが、現在のネット社会では、戦争やテロ行為による残虐な映像が流通し、人々は日常の中でそれらに接し、いわばそれらと共に生きている。私が生きている日常と、そのような過酷な体験がされている遠方の現実とが、感覚の上では距離を失って混ざりあってしまうのだ。そこでは、他者の経験や、歴史上の出来事と向き合うために必要な枠組みが、あらかじめ私から奪われていると言えるのではないか。
そうした時代を生きる者にとっては、このような映像による直接的な刺激の効果(リアルさ)も、無視してすませることは出来ないのかもしれない。
しかし、本来は、戦争という現実、あるいは現実の世界という総体を理解するということは、そういう断片的な刺激だけに還元されるものではないだろうと、僕には思えるのだ。


もっとも、僕は塚本監督の作品を見るのは、今作が初めてだ。こうした直接的で強烈な表現は、塚本さんが一貫して追求している手法なのかもしれないと思われ、そうだとすると、そこに「戦争のありのままを伝えるための、やむをえない手段」という以上の、積極的かつ不可避的な意味を見るべきなのかもしれない。
このへんは、ちょっと分からないところだ。


さて、以下のシノドスに載った塚本監督の鼎談記事は、やはり大変示唆に富むものだ。
読んでいて、深くうなずくところが何か所もあった。
http://synodos.jp/culture/16195

とくに、なるほどと思ったのは、この映画が、『みなさんに「70年前の過去の戦争」ではなく「目の前で起こっている戦争」の恐怖や臨場感を味わってもらいたい』という気持ちで撮られた、という発言だ。
僕も見ていて、これは過去の戦争ではなく、作り手にとっての「現在の戦争」を描いた映画ではないか、という印象を強くもったからだ。
主人公や他の兵隊たちは、現代の日本の社会に生きる人間たちのように話し、行動する。そこには、70年以上前の特殊な状況の置かれた人々の体験に接するときに感じられるであろう、違和感や距離感のようなものは、まったく無いといっていい。
見ている自分も、現在の日本の日常をすでに戦争(一種の内戦)状態ととらえ、その目線を主人公の目線に重ねていくことによって、非常にリアルな感覚が生じる。
そこに、この作品の真の「怖さ」があるとも思ったのだが、しかし同時に(先に述べたように)、それは歴史上の出来事、あるいは他者の体験というものへの接近の仕方として、果たして適切であるのだろうか、という疑問も生まれる。
ここで思い出されるのは、以前にここに感想を書いた、ハンガリー他の国々による合作映画『サウルの息子』のことだ。
『野火』の視点は、『サウルの息子』のそれと、妙に似たところがあると、僕には思えるのだ。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20160302

この感想記事は、われながら何が言いたいのか分かりづらい文章だが、要は、この作品は、想像の中に閉じこもった者の視点から描かれていて、そこでは客観的な事実・歴史といったものが、後景に退いてしまっているのではないか、という違和感を書いているのだ。
「サウル」の場合には、その閉塞的な主観の世界から主人公が脱出する契機は、「父と息子」をめぐる宗教的なモチーフに求められたのではないかというのが、僕のおおまかな憶測だった。
実は、これは偶然だろうが、『野火』も大詰めのところで、やはり「父と息子」という主題が出てくる。ただそこでは、普通の意味での宗教的な「救い」のようなものが求められているとは思えないが。
おそらく、『サウルの息子』も『野火』も、個々の主観が共通の枠組みをなくして、それぞれに孤立し、瞬時に伝わってくる映像などの情報の洪水のなかで、他者や歴史との出会いの場を失ったまま、どこかに拠り所を求めてさまよっているような今の世界において、他者や歴史の体験に接近するにはどうすればよいかという模索の中で作られた作品だと言えるのだろう。
かつてであれば、自分と他者との間には文脈の違いというものがあり、その違いを前提として、われわれは互いに関わりあえるのだということが、自明の前提とされていた(もっとも、この前提は、常に切り開かれねばならないものだったと思うが)。
今や、そのような前提となるべきものは破壊され、個々の人々は、いわば「じかに」他者の体験に接近することを試みるしか、孤立から脱却する道が見いだせなくなっているのではないだろうか。
『野火』も『サウルの息子』も、その困難さと、ぎりぎりの願望の両義性(希望と危うさ)のようなものに関わる作品だろうと思う。
『野火』の最後で主人公が見せた奇妙な祈りのような仕草は、その息苦しさを表現していたのかもしれない。