アラン『人間論』読書中

下の引用のページ数は、89年発行の「新装版」のものです。

アラン 人間論

アラン 人間論



『人間論』という題なのだが、アランという人の動物についての考えは、どうも単純でない。
たとえば、

人間の知恵はすべて、だから、深い眠りか、はっきりした目ざめかへ、にわかに移ることにかかっており、人間の愚劣さは、反対に、夢想と知覚とがいっしょになった、まさしく動物的な半睡状態に由来するのである。(p86)


この文章を読んだとき、ぼくは単純に、アランは明晰な意識とか精神といったものを「人間」の特性として称揚し、「動物」の生を貶めているのだろうと思った。
実際、明晰な「意識」が有する価値についてのアランの考えは強烈なものであり、よく西洋は人間中心主義が強いというふうな言い方がされるが、それはこれほど強力な思想なのかということを、はじめて実感したほどだ。
たとえば、アランは次のような考え方を非難する。
(目ざめてから起きるまでなどの)漠然とした意識(プルーストジョイスカフカなどが好んで描いたもの)というものが人間にはあり、そういうものが「動物の意識」だろう。
だからそこでは人間の「意識」と動物の意識との間に共通性、連続性があると捉え、そこに何らかの意味や価値を見出そうとするような考えである。
これを非難して、アランはこう言う。

弱い意識とか散漫な意識とかいわれるものは、最も目ざめた注意の所産なのだ。(p101)


つまり、そうした漠然とした「意識」をそのようなものとして見出せるのは、ひとり人間の明晰な意識だけである。
だから、このように見出された「散漫な意識」とか、あるいは「無意識」とか「夢」といったものは、人間独自のものであって、動物の思考は、それとはまったく関係ない。
むしろ、デカルトと共に、アランは「動物は思考しない」と言いきろうとするのである。


これは一見すると、動物の生の価値を否定する態度のように思える。
だが、どうも単純ではないのだ。
アランが非難するのは、人間が「半睡状態」に留まるということであり、動物の生そのものは、人間には想像することの出来ない、あるいは「思考」という言葉の適用を許さないような実在として捉えられている。
そんなふうにも考えられる。
彼はたとえば、こう言っているからである。

動物に関するコントの思想、これは力強い思想である。彼は言う、馬や象があい集まって、記念建造物や記録や儀式、つまり、私の言う意味での衣服を持つとしたら、彼らはいったい何を考え、何をするか、私たちには見当もつかない、と。たしかな事実は、人間は彼らにその暇を与えないということである。(中略)踊る暇もない動物には考える機会もまったくないということ、これはどう見ても本当らしい。(p43)


ここでは、動物は、人間が簡単に理解したり想像したりすることのできない存在、またそうするべきでもない存在として捉えられており、人間はその動物たちに「暇を与えない」ことによって抑圧しているのだ、という認識が示されてるのである。


アランの描く動物は、彼の描く「職人」「農民」「プロレタリア」と重なっている。
それは、事物の世界から直接何かを学ぶ存在として、とくに「商人」や「ブルジョワ」といった資本主義的な存在と対置して捉えられる。
だがここで、どうも奇妙に思えるのは、事物から距離をとることで「徴」(象徴)の世界をつくり出した人間の精神の営みを克明に捉えるアランの思考が、この時に限って、「農民」や「プロレタリア」の存在と生活を、まるでそうした象徴性(事物との距離)を持たないもののように捉えて、単純に理想化している(本質化している)ように思えることである。
ここには、アランの時代に世界中の人を捉えた、反資本主義的、農本主義的、同時に排外主義的だったりナショナリズム的だったりする強い傾向が、あらわれているのかもしれない。


そのことはともかく、ここで強調したい事は、アランにとって「動物」の生も、「プロレタリア」の生も、ともに管理を拒むものとして思考され、描き出されている、ということである。

革命と戦争は貧窮から生まれるとは、世のおおかたの通念である。だが、これは半面の真理にすぎない。恐ろしいのは貧しい者ではない。卑しめられ、はずかしめられた者なのだ。(中略)情念は暇と豊かな血を必要とする。飢えは怒りに導くだろうと考えられている。だが、これは栄養のよい者の考えることだ。実際のところ、極度の飢えは、まずよけいな活動を涸らすものであり、手はじめとして怒りを涸らす。(p25〜26)

もしも人間がネズミ同様に困難な生活をし、すべてを始めからやりなおさなければならないとすれば、短い一生の間にたいしたことができないことは、賭けてもよい。(p104〜105)


動物は、「困難な生活」を強いられていることによって、「たいしたことができない」ばかりか、怒りや革命の可能性も奪われているのである。
そして、それを奪っている者、「暇を与えない」者とは、(動物を支配しようとする)人間に他ならない、という認識がアランにはある。
「暇」や「豊かな血」を奪われることで、そうした被支配者たちは「情念」を持つことを不可能にされ、管理しやすい、支配されやすい存在に変えられていく。
そのような「管理された生」の形態とは、すなわち「ブルジョワ的な生」である。

奇妙なのは、失業者がふたたびブルジョワになることである。それというのも、人を説得することが必要となるからだ。熟練した腕も価値が軽んじられるところから、その人の中心が打撃を受ける。そして、職業上の大胆さがいちばん先に殺されてしまう。職をさがすこと、これはブルジョワ的なことである。この変化は人を待ってはくれない。すぐさま行われる。目つきがちがってくる。だから失業〔させること〕も術策と言いうるならば、これこそ最も巧妙な政治的術策であろう。(p157)


今日では、職を確保するために、こうした生き方を余儀なくされ、日々「ブルジョワ的」な、いわば迎合的な「多数者の生」に追い込まれていくのは、ぼくのような非正規労働者だったり、またリストラや倒産の危機にさらされている従業員、社員とその家族だったりするだろう。
それこそが支配のための「政治的術策」でありうるという認識まで、アランは述べているのだ。


繰り返すが、アランの思想の、いわば一種の右翼的傾向には注意が必要だろう。
だが読み取るべき要点は、彼があくまで「動物」や「プロレタリア」の生の解放なり復権なりを目指したということ、言い換えれば「管理され支配される生」の側に立って、その尊厳を守り抜こうとしたことだと思う。