前回のブクマコメントから

前回の記事に寄せられたブクマコメントから、とくに気になったものについて考えてみます。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090114/p1

わたしも募金をすることはあるけど、「「人の命を救う」という観点」なんてもったことがない。もてるとも思えないし、そもそもそれがどういう観点なのかがはっきりとはわからない。文章は好きです。


いきなり「人の命」というような言葉を出すと、抵抗があるかも知れません。
たしかに、派遣村なら派遣村に募金をするときのことを考えても、「これで人の命が救われるように」と思って募金するということは、あまりないでしょう。
またぼくも、「「人の命を救う」という観点」とはどんなものか、はっきり分かって書いているわけではないのです。


ただ、こう考えられるのではないか。
たとえば募金をする場合に、「それが誰に対して使われることになるのかを特定しないで(差別をしないで)、生死が危ういほど困ってる人のために使われてほしい」という風な気持ちを自分のなかに少しでも発見できるなら、それは「「人の命を救う」という観点」を持ってる、少なくともそれをはっきり持つための入り口に立ってる、と言えるのではないでしょうか。
それは、自分のなかに、人間の生死について、差別を越えた価値観というか、感覚を持ってる、ということであって、その「人間についての感覚のなかで差別的なものを越えてる部分」というのが、ぼくが書いた「人の命」という言葉の意味するところに近いのではないかと思います。


あの新聞記事のなかで引用されてた発言には、そういう部分、自分が心のなかに抱いている壁を越えていこう、越えていけるという気持ちを感じなかった。むしろその壁の存在に気づくことを、頑なに拒もうとしてるような印象を受けた、ということです。


それから、これはこの方のコメントに関連して言うのではないのですが、多くの方にはお分かりいただけたと思いますが、ぼくは「線引き」という行為自体を非難しているわけではありません。
それは実際にはたいていの場合必要なことであり、それが必要だということの重さや苦しさを誰より知っているのは、現場で活動に当たっておられる方たちでしょう。
ただ、この新聞記事のなかの発言にあるように、自分の価値観にもとづいて「助ける人間」と「見殺しにする人間」を、はじめから区別したうえで線引きを主張することは、端的に差別であって、許せないことであると言ってるわけです。
人助けのために寄付をしたりする人がどれだけ増えたとしても、こうした心の構造が容認される限り、排除される人は存在し続け、差別や戦争の危険はむしろ増大していくことになると思います。


ところで、線引きということについて言えば、ぼくらは誰でも自分の生活と、他人を助けることとの間で線引きを行いながらでしか生きていけないことも事実です。
だから、線引きということについて、高所から非難できる人は、誰もいないはずです。
だからこそ、それが必要であっても、常に必要悪でしかないという自覚を、現場で活動に当たっている人たちだけに背負わせるのでなく、全ての人が踏まえていくべきであろうと思うのです。