思い出す言葉

報道によると、イスラエルによる空爆開始からのパレスチナ側の死者数は、すでに635人に達したという。
http://www.asahi.com/international/update/0106/TKY200901060301.html


経済封鎖している占領下の地域を空爆し、圧倒的な武力で一方的に攻め込んでおいて、「戦闘」も何もないものだ。
また、数百人の住民が避難している国連の学校への砲撃で、多数の死者が出たことも報じられている。
http://www.asahi.com/international/update/0107/TKY200901060342.html


たしかに、「正当防衛」の名による今回の虐殺行為は、パレスチナ難民の歴史のなかでも、もっとも凄惨な出来事といえるかもしれない。
だが、ひとつ忘れるべきでないことは、パレスチナ難民の悲劇の歴史を作ってきたのは、イスラエルとそれを支援する大国が主たる役割を果たしてきたとはいえ、周囲のアラブ諸国民兵など政治的・宗教的諸勢力も、たしかに迫害を行ってきたということである。
難民であるこの人たちの歴史は、ひとりシオニズムのみならず、またアメリカなど大国の思惑ばかりでなく、アラブの国民国家や、民族的・宗教的狂信主義、排外主義による、排除と迫害の歴史であったともいえる。


イスラエルによる今回の大規模な攻撃がはじまった昨年の末ごろから、この出来事との関連というよりも、むしろ「派遣村」や「越冬闘争」や東京のホームレス襲撃事件のニュースからの連想で、ずっと頭のなかをよぎってきた文章がある。
それは、このようなものだ。

一九三二年、当時スペインはいたるところに寄生虫、つまり、乞食の群れがうようよしていた。乞食たちは村から村へと移り歩き、暖かかったのでアンダルシアへ、富んでいたのでカタロニアへと行くのだったが、その他どこでも国じゅうが我々には暮らしよかった。わたしは、要するに、そうであることを自覚した一匹の虱だったのだ。(ジャン・ジュネ著 『泥棒日記朝吹三吉訳 新潮文庫版17〜18ページ)


ジュネというと、近年はパレスチナ解放闘争との関わりが有名だが、この自伝的な作品が書かれたのは、またもちろんその題材となる出来事が体験されたのは、そうした政治的な行動をとるようになるはるか以前のことである。
その自分自身のことを、ジュネは、国境を越えて(フランスからスペイン、東欧へ)流浪する「寄生虫」「乞食」の群れのなかの一人として、「一匹の虱」として位置づけているのである。
この1932年の後に、ヨーロッパで何が起きたか、誰でも知っているだろう。


ジュネについては、思想的・政治的にさまざまな批判や疑惑がもたれることもあるが、確かなことは、彼が常に、支配的な社会や国境によって排除される者たちのなかに、ないしはその傍らに、自分の位置を定めたということだ。
これは、パレスチナ難民との関わりにおいても、変らない彼の姿であろう。


ぼくは、常にこのような位置に自分を置いて生きる人たちを尊敬する。
それは、迫害され虐殺の危機にさらされている人々の傍らに、少なくとも同じ低さに、自分の生の現実性を見出すことが出来る人たちだ。
そういう人たちがたしかに居ることを、ぼくは知っている。
ぼく自身は、そのような位置に自分を置いて生き、物を書いたり発言したり行動するということができない。
そのことが、こうして文を書いていても、いつも恥ずかしい。
だが、だからといって、何も書かない、言わないということはするべきではないので、恥を押し殺すようにして、こうして書くのである。


支配的な秩序や論理から排除され、死んで当たり前の存在、殺されることが当然な存在のように誰かが見なされる、殺されて(見殺しにされて)いくこと、それは決して許されてはならないことだと思う。
排除され、迫害される人たちのさなかに、少なくともその同じ低さに自分の存在を見出すということ、殺されていくのは、いわば自分の同類だと考えること、そのような者としてこそ生きることを選択すること。
それ以外に、人間としての幸福への道があるだろうか?