「戦闘員」という言葉について

http://mainichi.jp/select/today/news/20090105k0000m030062000c.html

イスラエル軍は3日夜(日本時間4日未明)、イスラム原理主義組織ハマスが支配するパレスチナ自治区ガザ地区に地上侵攻し、ハマス戦闘員と交戦した。先月27日に空爆が始まったイスラエル軍のガザ攻撃は地上戦という新段階に入り、一般市民の被害拡大と、イスラエルハマスの「報復の連鎖」悪化が懸念される情勢となった。


「懸念されること」(そして、起きていること)は、「報復の連鎖」などではなく、イスラエル軍による虐殺行為だ。いつまでこんな、欺瞞的な報道を続けるんだろう。
それにしても、「戦闘員」という言い方はなんとかならんのかと思う*1


イスラエル側がこういう表現を使うのは、「殺害が正当化できる者たち」(危険な非市民)という意味合いと、国際条約で認められるような正式の軍人・兵士ではないという意味合いがあり、要するに近年の国際政治における「テロリスト」とか「武装勢力」という用語に近いものだろう。
法的・政治的・道義的なあらゆる制約の外において抹消(殺害)を正当化できるような、新たな人間の範疇を作り出しているのだ。
このように、「非市民」と「一般市民」を巧妙に分割するゼスチャーを示した上で、そのことを名目に、実際には無差別的な虐殺行動を遂行しているわけである。


だが、日本など「先進国」のマスコミが、こうした言葉(「戦闘員」)を訳語として用いるのには、別の効能がある。
それは、「この侵攻は、戦闘員を殺す目的で行われているものであって、本来市民を殺戮しようとするものではない。イスラエルのやり方は見様によっては野蛮でさえあるが、抵抗してるテロリストの連中も市民を犠牲にしている。市民の犠牲は見るに忍びないが、まあやむを得ない。起きていることは、悲惨だが、戦闘員が完全に鎮圧されれば、この悲惨は近々やむ種類のものだ。」という風に、読者や視聴者が思えるということである。
要するに、虐殺の侵攻を黙認している自分たちのいたたまれない気持ちに対する、緩衝材のような役割を、この「戦闘員」という言葉が果たしてくれるのである。


だが実際には無論、起きていることは、一方的な、際限のない残虐行為であり、それを黙認しているわれわれの世界、という構造である。


詳細は以下で。


http://0000000000.net/p-navi/info/news/200901050257.htm


http://0000000000.net/p-navi/info/news/200901050559.htm

*1:ぼくの世代だと、どうしても仮面ライダーのショッカーを思い出す。