中国に対する差別的な視線

きのう、「オリンピック報道は、日本選手に関するものばかりだ」と不満を書いたが、テレビの番組欄や週刊誌の見出しを見ると、もっと多いのは中国に対する悪口だということがわかる。
「日本選手のことしか報じない」ということと、「中国について悪口だけを書く(言う)」ということとが、表裏のようになってるわけである。
ぼくには、これがたいへん醜悪に映る。


五輪がはじまるかなり前、まだチベット問題も大きく報じられてない頃だったと思うが、当局に逮捕された中国の人権活動家の言葉がニュース番組で紹介されてて、その人は、「オリンピックは成功して欲しいが、もっと人権や自由の尊重される社会になって欲しい」という意味のことを言ってた。
こういう心境の人は、当局から「反体制」と見なされる人のなかにも多くいるんだろう、と思った。
だが、こういう葛藤のある心理状態のようなものを伝える報道は、ある頃から影を潜めた。まるで、中国の人は誰でも、「無条件に現体制と五輪を賛美してる」か、「無条件に民主化を求めて五輪を批判してるか」のどちらかであるというような、日本の報道ぶりである。
いや、最近ではむしろ、この後者の中国人(漢民族)などほとんどおらず、全員が葛藤のない熱狂的な愛国主義者か排外的国家主義者、もしくは政府に洗脳でもされたものたちだと言わんばかりである。
要するに、「五輪の成功を望む気持ち」や「みんなで豊かに誇らしく生きたい」といった願望と、「強権的な管理や統制を不快に思う気持ち」とが、ひとりの人間のなかに共にありうるということを、想像できないか、想像したくないようなのである。
ぼくはそれが、他の人間を人間として見なさない、差別的な視線というものではないかと思う。


他の人間のなかに、そういう矛盾するものの混在を認めてしまうと、自分の側の安定性のようなものが崩れるから、その不安に直面しないために、他の人間を、そのような非人間的な像において見出したいのだろう。
これは、中国と日本との力関係みたいなものがすっかり変り、中国が多くの日本人にとって不安と脅威の対象になったことの表れには違いない。
そして、たしかに大国になり、愛国主義の強まった中国は、周辺の多くの国にとって、脅威であることも間違いなかろう。


だが、中国の人権弾圧や覇権主義的な行動を批判する場合、それはたいていは中国に対する脅威や不安の表明でしかないのではないか。
つまり、中国人の「人間であること」(人権、と言ってもよい)の無視や、中国に対抗する自分たちの側の覇権主義的な欲望を伴うことで、はじめて成立しているような批判ではないか。
これは、日本に限らず、欧米の「中国バッシング」についても、感じられる危惧である。
そこには、自分たちの側(日本、欧米)が、中国の人たちに対して、過去に何を行ったか、今現在どんな視線で見ているかという、反省がまるで欠如している。
そのような(密かに覇権主義的で、反人権的な、要するに差別主義的な)思考にもとづいて行われる中国批判が、「民主主義」や「自由」や(チベットなどの)「独立」といった理念を、その正しい意味では決してもたらさないだろうことは、(イラクなどの例をあげるまでもなく)想像に難くない。