活動家と警察

また生田さんのホームページから。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays13.htm

18日午後、西成署前での抗議行動を続けてきた釜ヶ崎地域合同労働組合稲垣浩委員長が逮捕。「14日、西成署前の市道に軽四輪の街宣車を2時間半止め、許可を受けずにマイクで街宣活動を行って労働者を集め、不正に道路を使用した疑い」ということだ。
実際には、こうした街宣活動は釜ヶ崎では何度も行なわれているが、逮捕されるということはなかった。つまり、暴動に対する弾圧と考えるしかない。


ぼくも、これは弾圧であると思う。
他の多くの逮捕者については具体的な事情を知らないが、ともかく今回の暴動全体にわたる(いや、それ以前からの)警察の対応は、ひどいの一語に尽きることは事実だろう。


こういう場合、かならず「暴動を扇動したり、裏で組織する活動家」の存在が批判の対象になる。
しかし考えれば分かるが、誰かが組織したり、励ましたりしなければ、バラバラな人たちが強大な権力に抗議の声をあげる、行動を起こすなんて、出来っこない。
そういう人(活動家)がその場所に居ることは、警察に日々虐げられてるような人たちにとっては、人間として生きていくためには不可欠なことだともいえる。
活動家の存在を必要としない人も無論そこにはいるだろうが、必要とする人たちがいることも、きっとたしかだ(その状況を作り出してるのは、直接的には警察である。)。
つまり言いたいことは、「暴動を起こした無力な人たち」を「活動家」の存在から切り離して、なにか自然発生的な行動だけが正しい(正当な)抵抗であるかのように考えることは、現実をちゃんと見ていない、欺瞞的でさえある、ということである。


「活動家」の存在は、ある人たちが人間として生きていくために、のみならず、たんに生きていくためにも、必要不可欠である。
幸か不幸か、今の日本は、そういう社会である。
虐げられ、窮迫している人に、声を挙げるな、権力に対して直接行動を起こすなということは、「黙って死ね」と言っているのに等しい。そして、弱い者が権力に対して行動を起こす、声を挙げるということには、政治的な力が付与される必要がある。
その人たちは、ぼくやあなたのように、はじめから人間としての発言の機会や方法や可能性を、市民社会のなかで与えられているとは限らないのだから。
このことのために、「活動家」は、この人たちが肉体的に精神的に生き続けるために必要なのである。


無論、活動家も、運動(支援)団体も、時には悪でありうるだろう。
警察や政府や企業と同様に。
だからといって、それらが「不要」であるということにはならない。それによってこそ生きるという人たちが、たしかに居る社会なのだから。
それを「不要」だと考えるのは、たとえば警察の論理だろう。その論理の支配によって、生存を否定されてしまう人たちが、たしかに居るということだ。
警察の行動に対する批判や監視の機能が働かなくなれば、どういう社会状況が出現するかを、釜ヶ崎の例はよく示していると思う。
だから、警察の論理に飲みこまれることを、ぼくは拒否するしかない、人間として生きようと思う限りは。


「困窮してる人を救うべきだと思うが、運動団体の政治的性格は認められない」という人は、自分が支援グループを立ち上げるなりして、弱い立場の人たちを、警察からも政治からも守ってあげればよい。
実際、そのように行動してる人たちも、現場には多くいるだろう。
だが、政治と人間の生とがそんなに単純に切り離せるものでないことも、自分の存在の無意識の政治性(暴力性)を自覚した人は、みな知っているはずだ。
本当に邪悪な政治的存在は、むしろぼくたち一般市民の方なのである。