前回のエントリーへの補足

前回のエントリーについてだが、ぼくの言葉不足で、もしかすると疑問を招きかねない点があるかも知れないので、遅ればせだが、念のために少し補足しておきたい。
前回ぼくは、「優生学」を乗り越えるために、「自由」とか「生命」というものの価値を持ってきても十分ではないというふうに書いたが、それは、「自由」や「生命」という価値が現状で十分保障されてるということではない。
むしろ、多くの場合、それらは脅かされているというのが、現状だろう。


そして、「自由や生命がかりに十分保障されたとしても、それでは優生学的なものを乗り越えたことにならない」ということとも違う。
優生学的なもの」を乗り越えないままに、「自由」や「生命」がほんとうに保障されることが出来るのかということが、疑問だからである。
優生学的なもの」を不問に付したまま、「自由」や「生命」の保障を実現しようとしても、うまくいかないはずだ、ということである。


ことに、「生命」については、たとえば生物学的な生命(生存)を損なわない形で、胎内や受精卵の段階での「操作」が可能だったとしても、それが「生命を損なっていない」ということになるかどうかは、おおいに疑問の余地がある。
そうした点は、他の場所で、十分議論が展開されていることと思う。