とり返しがつかないこと

この事件には、そんなに関心を持ってなかったが、ニュースを見ていて気になったので。


『秋田児童殺害:鈴香被告、彩香ちゃん転落時の状況を説明』http://mainichi.jp/select/jiken/news/20071030k0000m040106000c.html


被告が、自分が子ども時代に受けたイジメのことを証言したという報道もあった。
そういうことと、こういう事件を起こすということとを、関連して考えるべきかどうか分からない。裁判のなかで、被告や弁護人は、そこを関連づけて考えて欲しいという意図もあって、それを話すのかも知れないが、一般的には切り離して考えたほうがいいと思う。
また、自分が殺した、この子のことを、被告は「苦手だった」と言ったそうである。親が子を苦手に思うということは、よくあることではないかもしれないが、あったとしても不思議ではないと思う。当たり前だが、子に対して愛情を持たないから殺したり虐待するということではないだろう。愛情を持つがゆえに暴力をふるうということもある。もちろん、そうでない場合もある。
愛情を持つかどうかということと、その相手に対して(相手にとって)善い(悪い)行いをするかどうかということは、基本的には別のことだと思う。


それはともかく、上の記事で述べられている、犯行の当時の心理というのは、たいへん生々しいものだ。本当のことを正直に言ってるかどうか分からないが、かりに作り事であっても、これは生々しいと、ぼくは思った。
とくに、

転落後、5分近く尻餅をついていたとし「信じられない、信じたくない、信じない」心境だったと話した。


ここのところは、自分がもしそういう立場になったら、きっとそう思うだろうと思った。
とり返しのつかない、たいへんなことをしたという気持ち。
「たいへんなこと」というものは、そのほとんどの意味は、「とり返しがつかない」ということである。愛情を持っていても、いなくても、「とり返しがつかない」ことには変わりがない。
いや、「愛情」はほんとうは、この「とり返しがつかない」ということからしか生じないはずだ。
だが、「とり返しがつかない」ことと「とり返しがつく」こととの境界がひどく曖昧なところで、自分は生きていて、そうとははっきり気づかないままに「とり返しがつかない」ところに踏み込んでしまっている。

その後の行動について「自分は1人でここに来て、早く帰らなきゃ彩香がおなかをすかせて待っていると思い、帰って彩香を捜した」と述べた。


この言葉も、ぼくにはひどくリアルに響くのである。