ディープインパクトの危険について

一番語りたいとさえ思えるジャンルなのに、普段競馬についてあまり書かないのは、それを書くための言葉が自分のなかにないような気がするからである。


でも、今日の神戸新聞杯はさすがに衝撃的だったので、書いておきたい。
ディープインパクトは、あれはたしかに今まで見たことがないような馬だ。皐月賞もダービーもすごい勝ち方だったが、実はぼくはこれらのレースでは馬券を買ってなかったこともあり、そのことの意味がよく分かってなかったと思う。
競馬というジャンルの根本にあるのは、何かを「見る」という行為なのだが、「見る」ためには自分が馬券を買っているということ、つまり自分の欲望を馬という生き物にいくらかでも重ねて賭けてしまっているということが、基本的には必要である。まあ、生産者とか馬主とかは、馬券を買わなくても、それはしているわけだが。
馬券の場合、自分の内面的なものを金銭という交換可能なものに換えて賭けているという点が非常に重要なポイントだと思うのだが、そういうややこしい話は、まあいい。


今日のレースでは、ぼくはディープとストーミーカフェ馬連一点を買っていた。どうもとれそうにないレースだという気がしたので、一番買いたいと思う二頭の一点だけを買うことにしたのである。
それで、ストーミーのほうは直線に入ってすぐ馬群に呑まれたので馬券は外れたわけだが、正直、ディープインパクトが三角過ぎから馬なりで上がっていくのを見て、直線に向ったところで、もう馬券のことなどどうでもよくなった。その圧倒的な走りの行く末を見極めたいという感情だけになっていたのだ。
これは、「金のことより、強い馬とかいいレースが見たい」というような、キレイな話ではない。馬の走る姿を見ているうちに現実感覚がなくなってしまったということで、そうとう、怖いことだと思う。
あの馬の走りには、そういう魔力みたいなものがある。
考えてみると、皐月賞やダービーの馬券を買って、あの馬のレースぶりを見た人たちというのは、みんなこのように現実感覚を麻痺させられる経験をしたんじゃないだろうか。
もちろん、本当に競馬が好きな人は、という意味だが。


これはちょっと大変なことだ、とぼくは思った。
ぼくは競馬をはじめてから15年ぐらいになるが、これまでにこんな経験をさせる馬に会ったことは、たぶんない。ブライアンやヒシアマゾンとも、マックイーンやオペラオーとも、何かが決定的に違っている。
人間の感覚を麻痺させる破壊的な強さ、という表現をすればいいだろうか。


こういうふうに書くと、たぶんいまの政治・社会の状況の比喩みたいにとられるだろう。たしかにそんな連想もあったのだが、ディープインパクトのあの走りは、比喩でも幻想でもなく、現実である。いや、ぼくには現実に見えた。


ともかく、あの馬は危険すぎる。


それと、レース後に武豊のインタビューがテレビに映ってたけど、ぼくは20台の初めから彼を画面で見てるわけだが、面構えが地方競馬のオッサンの騎手みたいになってきたのは、いい感じである。
豊も、やっと「騎手らしい」顔になってきた。