『日本人の法意識』その1 憲法

前回書いた日本の競走馬の育成や管理のあり方の特殊性ということだが、これは考えてみると、日本の近代化の特殊性の反映としてとらえられよう。
早い話、競馬先進国、というよりも近代的な家畜化・生命管理の技術の先進国だった欧米では、馬という生き物を支配・管理の対象として明確にとらえ、もっとも効率的に操作するための技術を発達させてきた。そこでは、競走馬に関しては、それらの馬が本来持っているリズムや時間感覚を尊重した方が、管理しやすく、また効率的に利用できるという事実が発見されていたはずである。
日本で、このような近代的な家畜化・生命管理のシステムの導入が図られたのは、明治以後のことで、当然ながらその一環として欧米風の競走馬の育成もこのときから始まったわけだが、日本における近代化のあり方の特性として、従来からあった前近代的な動物(家畜)との関係性をあえて払拭せず、その上に欧米型のシステムを接木するような形をとったのではないだろうか。
つまり、馬という生き物を、支配・操作の対象としてドライに見つめ扱うという立場にあえて立たず、自分たち人間と同じ場に生きる下等な存在だという前近代的・封建的な支配者意識を保持したままで、近代的な支配・管理を行おうとした。馬が持つ独自の生のリズムや時間感覚を無視して、あくまで人間の時間の進め方に「同化」してしまおうとする、西欧近代とは別種の暴力的態度は、近代的・合理主義的な「他者支配の技術・思想」とは異なる、その亜種といえるような性質のものである。
これは、日本の封建遺制そのものから来る歪みではなく、日本の近代化のあり方に由来する歪みだと思う。つまり、本質主義的に、あるいは前近代からの連続性に由来するものとして、この暴力的態度の特殊性をとらえるべきではない。問題は、近代化の不徹底にあるのではなく、その徹底の仕方の特殊性にあったと考えたほうがよい。
このような視点に立つとき、ひとつの重要な示唆を与えてくれると思われるのが、川島武宜の名著『日本人の法意識』である。

著者の近代化への見方

1967年に岩波新書の一冊として世に出て以来、現在も多くの人に読まれているこの秀抜な啓蒙書において、著者が立っている位置は、近代法とその精神にいまだに適応しない日本人の前近代的な「法意識」を、たんに近代化を阻むものとして批判するというものではない。
むしろ川島は、近代化という普遍的な運動が引き起こす事柄の、ひとつの典型を、日本のケースに見出そうとしているのである。
第1章から、少し引用してみる。

明治政府は、一方では、資本制的な生産様式の促進に努力しつつ、同時に他方では、徳川時代以来の遅れた生産様式を広汎に残存させ、それを利用し、それの犠牲において、資本主義を発達させた、ということは今日誰もが知るとおりである。

そこで、ここでの私の問題はこうである。西ヨーロッパの先進資本主義国家ないし近代国家の法典にならって作られた明治の近代法典の壮大な体系と、現実の国民の生活とのあいだには、大きなずれがあった。そのずれは、具体的にどのようなものであったか。そのずれは、その後の日本の近代化ないし資本主義の発展によってどのように変形したか。そうして、第二次大戦後の全く新たな政治体制――それは、現在の「日本国憲法」によって象徴される――と、それに連なる経済的・社会的体制のもとで、現在、そのずれはどのように変化し或いは後退し或いは消滅しつつあるのか。


また、むすびの章には、こうある。

もとより、そのような変化(近代化 引用者注)は、一挙に全面的に起こるわけではないし、またそのようなことは有りえない。しかも、ひとたび、人々の心の中に定着した意識(観念・思想・感情)は、それを生みだした社会的基礎ないし背景が変化したのちも、それに抵抗して存在し続けようとする。このようして、伝統的な法意識は、世界史の上でも目をみはらせるほどに急激な、経済・政治および社会生活の近代化にもかかわらず――いな、ほんとうは、近代化がそのようなものであったからこそ――、根強く国民の中に存続してきているのである。そうして、それゆえ、そのような法意識が、日本近代化のてことなり且つ近代化の象徴ないし看板ともなった西洋式法体制のもとで、その現実の機能を押しゆがめ、「文字の次元における法律」と「行動の次元における法律」とのずれ――どの社会にも、この二つの次元のあいだのずれは、多かれ少なかれ不可避的に生ずるのであるが――の日本的な形態を生じたのである。
 だが、このようなずれは――「文字の次元における法」の近代性と、「行動の次元(法の機能)における法」の前近代性とのずれ――という現象は、右に述べたような意味での近代化の過程が進行する社会では、どこでも、おそかれ早かれ、また多かれ少なかれ、種々の形態で(決して、日本におけると同一ではあり得ないであろうが)起こるであろう。

この川島の視点は、近代化という運動そのものに対しては、ニュートラルな立場に立つものだ。川島は決して「近代化論者」ではない。ただ、近代化があるタイプの社会において行われたときに生じるであろう「ずれ」の現象を、注意深く観察するだけである。
この川島の態度は、本書の末尾近くに示された、未来への次のような洞察に、端的に示されていよう。

このような近代的な法意識は、まだ「行動の次元における法」を全面的に決定するに至っていない。しかし、それにもかかわらず、それはもはや歴史の進行がその方向に向かっているということについては、まず疑いの余地がなく、好むと好まざるとにかかわらず、それはもはや時間の問題であるように思われる。

2005年の今日から見て、川島のこの予言は、あたっているようにも、外れているようにも思える。

憲法について

まず、外れていると思えるのは、たとえば「憲法」についての川島の主張を読むときである。
「権利としての法」の意識について語られた第2章は、本書の中で今日もっとも言及されることの多い章だろう。川島は、この章において、西洋において「法」とはそもそも強者による弱者への実力の行使を抑止するための社会的メカニズムであり、実力や「権力」の行使から弱者の「権利」を守るためのものであること、それゆえヨーロッパの用語の伝統では「法」と「権利」とは同一の言葉で表現されてきたのであって、『法は「権利の体系」である』と言えることを詳しく説明した後、国家が持つ強大な政治権力から国民個々人を守るための法制度としての、「憲法」に説き及ぶ。
川島はここで、現行憲法では権利と自由ばかりが強調されていて、国民の義務の観念が薄いとする中曽根康弘による日本国憲法への批判に反駁して、次のように述べる。

これは、新憲法がそれらの「権利」を規定する、ということの目的ないし趣旨に対する、無理解から生じたものである。政府は、政治権力(それは終極には、組織された物理的力に支えられる)の主体であり、政府は国民に対して優越した力を有するのが、原則である(「人民主権」というイデオロギーと現実の力関係の問題とを混同する誤りにおちいってはならない)。したがって、政府及び政治権力の実質上のにない手と、国民一般とのあいだには、一般的には、事実上の力の強弱の差こそあれ、事実上の力の平等は存在しない。これを、少なくとも法の平面では平等者の関係――すなわち「権利」の関係――として処理する努力が、右の基本権の規定なのである。

政治権力と国民個々との圧倒的な力の不均衡を前提にしたうえで、この力の不均衡による脅威から国民の権利を守る仕組みとして、川島は「憲法」を語るわけだが、日本人の「法意識」が、「権利」を意識し主張する近代的な意識へと変わっていくはずだという、川島の如上の予言が、外れたのではないかと思われるのは、このことをめぐる次のような彼の文章を読むときなのだ。

したがって、憲法において政府と国民との関係が「権利」の関係として規定されているということが、単なるイデオロギーの宣言以上に現実的なものとなるかどうかは、種々の条件にかかると言わねばならない。憲法および憲法にもとづく種々の法律は、立法権・行政権・裁判権のそれぞれについて、国民による直接または間接のコントロールを規定するが、それらのすべてによっても、憲法上の国民の権利を保障するのに十分であるという必然性はない。またすべてを政府権力の自制心に依存するということは、事実上の力の弱者が事実上の強者の優越した力に依存することを意味し、「権利」を規定するという憲法の根本の趣旨に矛盾する。憲法が集会結社の自由・表現の自由・学問の自由等を保障するのは、これらの自由をとおして政府と国民との間の事実上の力の均衡をはかり、それによって「権利」の実質的な基礎をつくりだす、という機能をもつからだ、と考えざるを得ない。言いかえれば、憲法上の国民の「権利」を実質的に維持するための方法としては、政府と国民との間の力関係の均衡をはかるということが、きわめて重要なものとなる、と言わねばならない。そうして、このような意味での力の均衡は、国民が憲法上の「権利」を知り、これを守る決意のもとに、権利を擁護する行動をとるということによってしか実現され得ない。だから、「権利のための戦い」は、憲法上の権利については、特に重要と言うべきなのである。

2005年の現時点で、「日本人の法意識」は、少なくとも憲法に関する限り、これを国家の力に対する個人の権利の擁護のための仕組みであるととらえるところには至っていないし、したがって、各種の「権利のための戦い」をとおして政府と国民との間の力の均衡を図るという、川島が言うところの日本国憲法にこめられた意図がどれだけ理解され、実践されているか疑わざるをえない。
この部分では、「日本人の法意識」は、その近代化の特殊な様態を保持したまま、変わっていないのだと考えられる。


ぼくの考えでは、ここには「不徹底な近代化」とか「前近代の残存」があるというわけではなく、「特殊な近代化の様態の存続」がある、と見たいのである。
この近代化の特殊な様態は、どのような性格を持っており、またなぜいまだに存続しているのか。その答えの手がかりがつかめるかどうか分からないが、次回も引き続き川島のこの本に即して考えていきたい。

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)