乗られる立場

ぼくは競馬が好きなんだけど、やはりすごい競馬ファンの年配の女性の友人と話していて、こんな経験をしたことがあった。


以前、メイショウサムソンという強い馬が居て、デビューから何レースかは石橋という騎手が乗ってたんだけど、大レースに出るようになって、武豊騎手が乗る事が多くなった。それでいつの時だったか忘れたが、次のレースは武が乗るのか石橋が乗るのかが、ファンの間で注目されることがあり、その友人と話してたときのこと。
その友人は、「私が馬だったら、絶対武豊がいい」と言ったのだ。
ぼくは自分が「乗られる」立場の想像をしたことが全くなく、その言葉を聞いて、なんともいえない、落ち着きの悪いような感覚になったのを覚えてる。


これは、その友人が女性だからどうこう、と言いたいわけではなく、ぼく自身が「乗られる立場」の想像をしたことがなかった(これは馬の立場なわけだから、当たり前とも思えるが、その友人には「当たり前」じゃなかったわけだ)ということと、その想像をしてみたときに、何とも妙な気分になったということとを、考えたいわけである。


その「妙な気分」、「落ち着きの悪さ」というのは、ジェンダーと言ったらいいのか、セクシュアリティと言ったらいいのか分からないが、ともかく性にまつわるものだという気がした。
馬に騎乗するという行為は、(実際の騎乗においてどうかは、ぼくは経験がないので分らないが)想像上では、動物である対象を操縦する、という感覚のものである。
その感覚(または欲望)が、自分では意識してないけれども有している「異性愛者で男性」という自分の特権的な性の意識というものと重なっていて、そのため自分が「乗られる」(対象化され、支配され、操縦される)という想像をしたことがなく(あるいは、想像することを自ら抑圧しており)、だから友人の言葉でその想像をすることになったときに、落ち着きが悪いような、不安なような、妙な気分になったんじゃないか、と思える。
そうだとすると、この(自己)抑圧のために、ぼくは動物に対しても「支配の対象」という見方しか出来ず、その立場を自分の身に置き換える(同一化する)可能性を失ってたことになるだろうが、友人はそうではなかった、ということだ。


まあ、あまりまとまってないけど、そのときの妙な感覚をよく覚えていて、今でもその意味を考えることがある、という話。