やせ細った町

長居公園のテント村を撤去した上で行われた大阪大会の記憶も新しい世界陸上だが、今回の舞台はベルリン。
さっき男子マラソンの中継を見てたら、コース説明の実況のなかで、ある地域について、


「ここは戦時中爆撃で古い建物が破壊され、ベルリンの壁崩壊後は、若い芸術家たちが不法占拠して住みつき、新しい文化の発信地となっている。」


というようなことをアナウンサーが言っていた。


大阪でも東京でもいいが、都市の歴史と現状について、こんな説明がマラソンの実況中に流されるということが考えられるだろうか?
ここでは、「不法占拠」という行為が、都市(地域)の文化を世界に向けて紹介する事柄として堂々と位置づけられている。
そこには、何が合法であり何が不法であるかという尺度などは所詮限定的なものであり、芸術など人間の作り出す文化と、それを支える生活や行動というものは、人間の生の名においてそうした限定的な基準を越える価値を持つものだ、という感覚が表現されていると思える。
そういう感覚、考え方こそが、その都市のはらんでいる、また生み出しうる「文化」の幅の豊かさと奥行きを保証するものだろう。


今回の大会において、開催をめぐっては、大阪のような経緯があったのかなかったのかは知らない。
しかし、日本の都市の生活だの文化だのが語られ構想されるときに、上のような度量の広さ、腹の座り方、というよりも、人間が生きているということについての確たる思想がなければ、実のあるものは何も生み出されないことは、間違いない。
肝心なのは、人が生きているという事実、生きてきたという歴史の重さを、ないがしろにしない態度が、その根底にどこまであるか、ということだ。


ちょうど大阪ではこの週末から「水都大阪2009」というイベントが鳴り物入りで始まったのだが、そんな思想をほんの少しでも、日本のこうしたイベントに感じることが出来ようか?
長居公園の例を出すまでもなく、ぼくにはやはり感じられないのだ。


そういえば、ベルリンのユダヤ博物館にあたるようなものも、東京や大阪にはないよなあ。
自分の社会の中で迫害を受けてきた他の民族なり階層なりに属する人たちの存在と歴史には目をつぶって、ということは、その人たちの生命や心については一切見ないことにして、それで自分たち自身の歴史をちゃんと振り返って受けいれたり、まして誇りのような感情を持つなんて、もし出来るとすれば、余程薄っぺらな歴史観であり感情だろう。
人間の生命や歴史についての、そういう薄っぺらい考えや感情が、やせ細った中身のない文化を作るのだ。
ぼくたちの暮らすこの町が、本当に世界に何かを発信できるような場所になるためには、まだどれだけかかるだろう。


9月6日の日曜日、長居公園ドキュメンタリー映画が大阪で上映されるそうです。
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