『反貧困』

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)


著者は、「貧困」に陥っている人たちのために自身がすすめている共同的な「居場所」(誰が来てもいい喫茶店など)作りの、運動における意義について、次のように書く。


こうした「まったり」「だらだら」とした居場所の存在は、「反貧困」という言葉のもつ運動的・戦闘的なイメージにはそぐわない、と感じる人がいるかもしれない。しかし、両者は密接に関係している。
 たとえば労働組合にはともすれば、ともすればすでに組合で一緒に闘っている人、またこれから組合に入って一緒に闘おうという人だけが仲間だ、といった意識がある。組合員増加、組織拡大だけに着目すれば、それは合理的な選択に見える。しかし「反貧困」は、それでは闘えない、と私は感じている。
 ここでも鍵概念は、やはり"溜め"である。闘うことも、働くことと同様、膨大なエネルギー("溜め")を必要とする。「不当な扱いを受けたんだから、怒らなきゃいけない」という怒りの強要は、「誰だって、その気になれば再チャレンジできるはず」というチャレンジの強要と基本的に変わりはない。必要なことは、怒りにしろ再チャレンジにしろ、それが可能になるまで("溜め")を増やすことである。そのプロセスを描けなければ、それらの強要は、結局種々のセーフティネットからの切り捨てに帰結するほかない。(p138〜139)


著者が運動経験のなかで考案した、この「溜め」という重要な概念にかんしては、ちょうど一年前の今日、以下のエントリーに書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070524/p1
著者は「貧困」を「貧乏」から峻別し、「貧困」がもたらされる条件として、経済的、社会関係的、精神的等、さまざまな「溜め」の欠如ということを指摘するのである。


これは、すごく幅と深みのある概念だと思うのだが、本書のなかで指摘されている大事なことのひとつは、われわれは誰かに励ましや叱咤の言葉をかける場合(またそうでなくいたわりの言葉をかける場合にさえ、だと思うが)、『得てして自他の"溜め"の大きさの違いは見落とされる』(p88)ということだ。
つまりそれは、人と人との間の、容易には目に見えにくい、社会的な(条件の)差異みたいなものだといえる。われわれは、他人を見る場合に、またとくに自分自身を見る場合にも、この差異を考慮しない、軽視する、見たくないのであえて見ないですませる、といったことをしているらしいのである。
そこで、非常におおざっぱに、自分の価値観を他人にあてはめて非難・激励したり、その価値観のなかでのみ自分の状況をとらえたり、といったことが起きる。


それはともかく、上の引用文に戻ると、怒りや行動のためには、「まったり」、「だらだら」した「居場所」のなかで精神的な「溜め」を作ることも必要だ、と書いてある。
ここを厳密に言うと、共同的な「居場所」に身を置いて「まったり」、「だらだら」することにより、人は「溜め」を作っていく契機を得る、ということだろう。
これは、「まったり」、「だらだら」した状態のなかに、人を怒りや、他の人と共にする行動や感情のなかに差し戻す、潜在的な力が含まれている、ということではないかと思う。その状態のなかで、人は、自分が本来生きている存在のあり方のようなものへの自覚をえる(回復する)。
言い換えれば、今の社会では、人は「溜め」を奪われることによって、そういう生の本来的な力に接続する可能性から遠ざけられている、そういうことは言えそうだ。「溜め」というのは結局、この本来的な力への接続の可能性のことであろう。
著者は、今の社会では『自分の部屋以外に居場所がない人たち』(p137)が増えていると書くが、そのことの社会的な意味は、それである。


共同的な「居場所」で体験される「まったり」、「だらだら」した状態には、たしかにある潜在的な力がこめられているのだが、それはその人(人間)を生きさせている社会的な力、他人たちと自分との関わりの姿を、その状態のなかでその人が感じとっていることに由来する。
人は、「居場所」での空無的な情緒(「まったり」、「だらだら」)のなかで、自分の存在が社会(他人との関わり)のなかに置かれている、置かれてきたということに気づく機会(可能性)をえる。あるいは奪回する。
つまりここには、責任や義務の萌芽がある、ということだろう。
それは、自他の「溜め」の差異に、他人を他人として尊重することに、敏感になる、ということと重なっていると思う。