「反ファシズム戦争」の論理を越えて

今回の「従軍慰安婦」問題をめぐる日本の政治家や外交官の発言を読んでみっともないと思うのは、アメリカ議会への法案提出の動きなどについて、「アメリカの議員の選挙区の事情」(駐米大使)だとか、他国による「日米間の離反工作」(麻生外相)だとかいうことが、起きている事態の不当さの証明であるみたいに堂々と述べられていることだ。


どんな政治行動でも、複合的な事情なり目的はあるだろう。当たり前である。
だが、問題になっている事柄自体が「これはひどい」と思わせるものでなければ、法案提出の動きになったり、マスコミが大きく動くはずがない。
現状は、この問題に対する日本政府のこれまでの対応と安倍首相の発言が、アメリカの多くの政治家やマスコミを動かすに十分なほどひどいものだということを、起きている現実が証明しているということである。
そうでなく、たんなる政治的思惑による策動の結果でしかないと言い張るなら、それを阻止できないのは日本の政治家や外交官の力が足りないということだろう。
肝心な部分から目をそらせるようにして、末節の「内情」や「意図」だけをあげつらうのは、自分たちのやましさと政治的無能さを告白しているようなものだ。


とはいっても、こうした問題がアメリカ(や中国)などの大国をはじめとする各国の思惑に左右され、一種の政治的な道具のように扱われることは、もちろんよくないことである。
ぼくは、そうしたことを回避するためにも、日本政府はきちんとした謝罪と補償をもっと早く独自に行うべきだったし、そうするべきであると思う。
アメリカがどういう反応をしようがしまいが、するべきことはするべきだ。


ところで、こうした他国の人たちへの過去の行為に対する責任の問題と並んで、それとある部分は重なりながらも、日本という国家が(他国の人のみならず)自国民に対しても戦争にまつわる補償責任を放棄してきた事実があり、それはまたアメリカに対してなされるべき責任の追及を回避してきたことでもある。
この8日に提訴が行われた、東京大空襲の被害を受けた「一般戦災者」に対する国の「放置」の問題が、その実例だ。
http://www.asahi.com/national/update/0309/TKY200703090210.html
この問題は、旧軍人・軍属と一般戦災者との間に国が線を引き、後者については補償も援助もしてこなかったことの非を問うものであり、まずは戦前戦中から敗戦を越えて現在も継続している日本という国家のあり方を問うものだといえる。
そのことは、もちろんこうした戦災(無論、広島、長崎を含む)によって命を落としたり被害を受けた人たちが、いわゆる「日本国民」「日本人」ばかりではないという重要な事実に深く関わる。ぼくは、たとえば一連の空襲における朝鮮人被災者の存在は、「日本人以外に、こういう被害者もいた」というように、付随的に語られてはならないものだと思う。それはまさに、戦争を起こしてその責任を放棄し続けている日本という国のあり方の根幹に関わることだと思うからである(沖縄戦における地元住民の被害についても、同様のことがいえるだろう)。


だが、さらに重要なことが他にもある。
旧西ドイツにおいてもそうだったように、同盟国となった米軍による「無差別爆撃」は、戦後のこの国の枠組みのなかでは深く問われることのないタブーのようになってきたが、連合国側が犯したこうした(無差別爆撃のような)「反人道的行為」の責任も、本来公に問われなければならないものである。
こうしたことが日米の外交の場で問われてこなかったという事実もまた、日本という国の戦後と現在のあり方に関わっているのであり、国家が引き起こした戦争によって死んでいった多くの人たちの命について、明確な責任が誰によってもとられることのないままに過ぎた時間や空間の空虚さは、現在もわれわれの生を規定しているこの「あり方」、枠組みに根ざしたものだと考えるべきだろう。
第二次大戦における国内外の人たちへの日本国の責任を問うという行動は、最終的には、日本が戦後そこに組み込まれることになり、形を変えて現在も続いている世界秩序の正当性、妥当性というものを問うことに関わってこざるをえないのだと思う。


ここで強調したいのは、「従軍慰安婦」問題へのアメリカの議会やマスコミへの関心、論調に示されているような「歴史修正主義」への対抗の動きを、第二次世界大戦の結果を「反ファシズム戦争の勝利」と位置づけて神聖視することにより現在の世界秩序を不動のものとして是認させようとする論理に回収させてしまうべきではない、ということだ。
アメリカの主導と中国・ロシアの協力によるこの「世界秩序」が、それを脅かす存在に対する「テロとの戦争」を正当化するイデオロギーとして機能したことは忘れられるべきでない。
ファシズム歴史修正主義への対抗は、もちろん必須である。だがそれは、ファシズムという絶対悪に対抗するという美名のもとに行われてきた反人道的行為を不問に付す結果をもたらすものであってはならないし、現在の「平和」と「秩序」のなかで進行している人道と人命に対する侵害を容易にするような効果を持つべきでもない。
最終的に問われるべきなのは、過去に行われた個別の罪ばかりではなく、現在不幸にもいたるところにあって拡張しつつある言わば普遍的な罪の構造なのである。