ジャコメッティ展

http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_0608/main.html

この展覧会は、なかなか面白い見せ方がされていて、広い部屋のなかに、絵やデッサンは順番に四方の壁にかけてあるんだけど、彫刻は空間一杯にひろがって置かれていて、目についたもののところへ行って色んな方向から自由に眺められるようになっている。
入り口に置かれてあった「かわら版」というチラシみたいなものを読むと、いくつかある展示室の間の扉が開いたままにされていて、隣の部屋からものぞけるようになってたのも、そうした工夫のひとつであったらしい。

開いた扉からご覧になると、通常の順路とは違う距離や角度から作品が見えることと思います。ジャコメッティの作品は、遠くから眺めても非常に存在感があるということや、いろいろな角度から彫刻を眺めていただく面白さに気づいていただくきっかけになれば、と思い、扉を開けてみました。(「アルベルト・ジャコメッティ展 かわら版」より)


この「面白さ」、堪能しました。
彫刻を見るには、さまざまな距離や角度という「空間」も大事だし、作品によっては、「時間」もすごく大切だと思う。
ジャコメッティの場合、とくに戦後に作られた主要な彫刻作品を味わうには、「空間」の自由さが圧倒的に重要だ。ひとつの作品の周りをぐるぐる回ったり、近づいたり離れたりして、自分と作品との間に自由な空間(関係)を作り上げていく。そこに幻惑や高揚が生まれてくる。
今回の展示は、そういう楽しみを十分に味わえるよう配慮されていたと思う。


会場に入って、最初に思ったことは、ジャコメッティという人は、彫刻家のなかでもとりわけ「かっこよさ」にこだわる人だったのではないか、ということだ。
会場を見渡して、ふっと振り返ったとき、彼の弟を描いた「スタンパの居間に立つディエゴ」という油絵が目に飛び込んできた。茶色いスーツに身をかためた背の高い若い男が部屋の真ん中に颯爽と立っている。目をみはるかっこよさだ。
それは、ジャコメッティの自画像でもあるように思えた。
有名な独特の人体像は、たしかに目の前にある存在の本質をとらえようとした結果だと思うが、それにしても、あそこまで思い切ってやってしまうには、ただ探究するというだけではなく、どこかで跳躍がいるはずだ。
その跳躍は、この人の場合、非常にスタイリッシュなものだったんじゃないかと思う。


一番鮮烈な印象を受けたのは、たしか「立つ女」と題された、極限まで削られてかたちづくられた小さく細い女性の胸像である。首から下の部分は、ほとんど骨とそれに付着したわずかな肉片だけにみえる。
実際に見てみると、これらの作品の実物のインパクトは、やはりすごい。
よく劇画とか、ハリウッドのホラーに出てくるゾンビなんかが、どうしてあんなグロテスクな姿が作れたのかと思ってたが、「ジャコメッティ以後」においては、特別な想像力を必要としなかったのかもしれない。


サルトルは、ジャコメッティの作品について、「見えたとおりに作ろうとする」みたいなことを言ったそうだが、今回現物を見てみるとたしかにそう思えることもあったし、それだけでなく、「見る」「見られる」という関係を越えたところで目の前の存在をつかもうとしている感じもあった。
また、さっき言ったように、そこにスタイリッシュな要素が混じりこんでいるような感じも受けた。つまり、自意識ということ。


他では、「ヴェニスの女」と題された、二つの大きな立像。これなんかは、「ああ、こういうふうに見えたんだろうな」と思い、なんだか愛しい気持ちがした。
それから「檻」という題のついた二つのオブジェも面白くて、あれは部屋のなかに一組の男女を置いた造型だと思うのだが、男の方は部屋に胸まで埋まってしまっているのに比べて、女はそこからすっと身を離していて、自由な姿にみえる。
ぼくには、そういう意味合いの作品に思えた。


今回は、彫刻のほか、デッサンなど絵画も多く展示されてたが、ぼくは興味がないのでほとんど見なかった
あと、今回の展示はジャコメッティのモデルであり、親交があったことで知られる矢内原伊作とのかかわりに大きなポイントが置かれていたようだが、これもあんまり関心のないことだった。
ジャコメッティのアトリエ』を書いた、ジュネとの関わりについて興味があったのだが・・。


出口のところに、次のようなジャコメッティの言葉が掲げられていた。

試みること、それが一切だ。


たしかにかっこいい。


兵庫県立美術館で、10月1日まで。