聞く側と聞かれる側

『<不良>のための文章術』がとても刺激的だったので、永江朗のべつの本を買ってみた。講談社現代新書からでている『インタビュー術!』。
題名どおり、インタビューについて書かれた本なのだが、『<不良>のための』と同じく、徹底して実用的でありながら、同時に鋭く深い。
その一節。

核となる質問がある。私の場合は「なに」と「なぜ」だ。その小説はその作家にとって何なのか、音楽家にとって歌うことは何なのか。「それは何か」という問い。そして、「なぜ書いたのか」「なぜ歌うのか」。ほんとうはどんなインタビューもこの二つの問いだけあれば、そしてそれに対するちゃんとした答えさえ得られれば、もうそれで充分だ。しかし、多くの場合、話し手自身が「なに」「なぜ」の答えを見つけられないでいる。だから私はたくさんの質問をして、「なに」と「なぜ」のまわりを回っている。聞き手と話し手は一緒に探すが、見つかることもあれば見つからないこともある。見つからないことのほうが多い。無理に見つけてもそれはにせものかもしれない。(p58)


ぼくも、人に自分についての何かをきかれて、たいてい「なに」や「なぜ」が見つけられない。それらを見つけようとして、言葉になるようなものは何も自分のなかにないことを確認する。いつもその繰り返しである。
そのくせ、自分が聞き役になって、相手の「なに」や「なぜ」を聞こうとすることは好きである。聞かれる側より、聞く側のほうが楽であるし面白い。はっきり言えば聞くことの愉悦のようなものがある。他人が話すのを聞くことは、相手をあやつって話させることであり、陰にかくれて支配することだ。
聞く側に立ったとき、話し手と「一緒に探す」ということにも、この愉悦がある。だがそれがなければ、人が人に共感するということがありうるだろうか。人が人であるために、愉悦はあってよい。そう思う。
むずかしいのは、話し手と一緒に探していて、見つからないことを見つからないままにすませることだろう。だが聞き手が話し手と一緒に探し、何も見つからないということを発見するのは、たいへん大事な体験であると思う。もしかするとそれだけが、ほんものの共感と言えるのかもしれないから。