プロの仕事とブログの倫理

このところネタにしている永江朗の『<不良>のための文章術』という本は、プロのライターを目指す人たちのために書かれた本です。「プロ」とは、ぼくの言葉でいえば「賃労働の現場にいる人たち」ということです。これは、ぼくのようなブログの書き手とは、書くときの立場としてはまったく違っているといえます(もちろん当人の実生活での職業が何であるかは、まったく関係ありませんよね)。
ちょうど、その本のなかに、「書評」についてのかんがえがのべられているところがあるので、その一節を引用してみます。
著者は書評(本の紹介文)について、『当該の本をきちんと読むのは最低限のルールです』と明言しています(もっともな主張で、ぼくも同感です)が、その理由として次のようなことを書いています。

まず、当該の本を読みます。世の中には「読まずに書く」という人もいます。「まえがきあとがきを読んで、あとは面白そうなところをチョイチョイとつまみ食いすれば、千字や二千字ぐらいの紹介文なら書けるぜ」とうそぶく人もたしかにいます。しかし、初心者はそれをやってはいけません。なぜなら、リスクが大きすぎるし、のちのためにもなりません。
 リスクというのは、たとえば論争です。ものを書いて発表すると、異論や反論や批判が出てくることがあります。(中略)
「読まずに書く」なんていうことをやっていると、この論争に耐えられません。「永江は誤読している」と指摘されても、肝心の部分を読まずに書いたのであれば、反論のしようもない。でもまさか「ごめんなさい、読まないで書きました」ともいえない。当該の本をきちんと読むのは最低限のルールです。(p116〜117)


これは、非常に面白い文章です。
当該の本をきちんと読むことは「ルール」だといわれていますが、あくまで自分がプロの書き手として生きていくための必要からです。「読者や著者に申し訳ない」とか、公共の場に書くことについての先験的なルールがあるということではありません。これはたいへん特徴的です。
裏をかえせばリスクを引き受ける気があれば、それをやってもよいということになるでしょう。


ただし、これはあくまでプロのライターを目指す人たちの話です。ここでいう「リスク」とは、批判されて読者に信用されなくなり、プロとして食っていけなくなることを意味するからです。だから、他者(著者、読者)との関係を考慮した特別なルールを作らなくても、いい加減な批評の言葉が流通する心配はない。そういう奴は消費者によって淘汰されていくだけである。
ここでは、いわば消費社会の市場が、秩序と水準を保つためのルールの役割を果たしていると考えられます。市場の厳しい現実に対する「プロ」としての意識が、書き手の倫理的な歯止めとして働いている*1


ぼくのようなブログの書き手には、そんなリスクのとりようはありません。批判されようが信用されなくなろうが、「嫌なら読まなきゃいいじゃん」というわけで、好き放題にいい加減なことが書けます。「プロでない」というのは、非常に強い立場です。
ここでは、なんらかのルールが作り出されなければ、著者や読者が大きな迷惑をこうむるとともに、批評の水準が著しく低下するおそれがあります。「インターネットの倫理性」が叫ばれる理由のひとつには、こういうこともあるのですね。いまのところ、コメント欄やトラックバックでの的確な批判が、その「ルール」(倫理的な歯止め)の役を果たしているといえるかもしれません。もちろん、功罪ともにあるわけですが。


上に「消費社会の市場」(平たく言えば、お客の評判)ということを書きましたが、公共の空間における無限定で無責任な言説の流通に歯止めをかけられると考えられるものは、市場メカニズムだけではありません(法は別として)。
学者の論文には学会の共同体が、文学者の書くものには「文壇」や文芸誌のような共同体が、こうした歯止めの装置として存在し、ひどくレベルの低い論文や、あまりに価値の低い作品が、公共の場に氾濫することをある程度防いできました。
しかし、市場も含めてこれらの共同体は、実はすべて幻想です。つまり、産業構造のような社会全体の仕組みが変われば、これらの共同体への信頼は失われていいき、歯止め装置として働かなくなります。
特に市場メカニズムにかんしては、低賃金化とインターネットの発達という二つの要素が、出版やジャーナリズムの業界のあり方をかえ、これまで働いてきた「書き手のプロ意識」という歯止めの有効性が揺らいでいるのではないでしょうか。
端的にいえば、物を書くという賃労働の価値が大幅に切り下げられて、「プロの書き手」という実体が成立しなくなりつつある。ブログのような非プロ的な領域との境界が曖昧になることで、これまで書き手たちのプライドや倫理性を支えてきた職業意識が失われていくのではないか。


書くことが、あるいは労働一般が「賃労働」として成立しなくなったとき、またそれに結びついていた各種の共同体の価値観も効力を失ったとき、労働の倫理性を支える根拠は、果たしてあるのか?いま考えられている代案は、「国家」ということなのでしょうが。
賃労働の切実さや、学問・芸術などの共同体が保証する価値、それらはどちらも尊重すべきものですが、それだけでは人々の社会に対する倫理的な意識をフォローしきれなくなっているのが、今日の社会であろうと思います。
「食っていくため」、「学問的権威や芸術的名声をえるため」ということだけではない、新しい社会的な秩序のあり方を、みんなが真剣にかんがえるときにきている気がします。
 
 
しかしそもそも、それは倫理であるべきなのか?
『<不良>のための文章術』を読みながら、ぼくがずっと考えていたのは、そのことでした。賃労働から解放された労働、たとえばブログを書くという行為に、本当に倫理や社会性は必要なのか?それが公共の場にかかわる行為であったとしても。

(ひょっとしたら、続きます)。

*1:こうした永江の物言いは、消費社会の仕組みをたいへん肯定的にとらえたものだといえますが、プロのライターを目指す人のための本なのですから、当然でしょう。