消えた素浪人

どうも画面が殺風景な気がしたので、プロフィールに自分の写真を載せてみたのだが、どんなものであろうか。
これは、毎年2月に北海道の朱鞠内という場所でおこなわれている「東アジア共同ワークショップ」という催しに参加した、ある年のスナップなのだが、指に包帯を巻いているのは暴漢に襲われて刃を素手で防いだ、というのは嘘で、わかさぎを釣りに行くときにうっかりして自動車のドアで自分の指を詰めてしまったのだった。あまりにも痛かったので絶対骨が折れてるとおもったのだが、たんなる打撲だった。

それから、やはりプロフィールに「好きな歴史上の人物 月影兵庫」と書いたのは、年配の人にはわかるとおもうが、近衛十四郎が演じたテレビの人気時代劇、「素浪人 月影兵庫シリーズ」の主人公だ。ぼくは、この大酒飲みの素浪人が、子どものころ大好きだった。このドラマの面白さは、なんの社会的地位も後ろ盾もない流れ者の変な浪人が、困っている人を助けて悪者をやっつけるという痛快さにあった。この中年の侍は、剣術の腕は確かなのだが、仕官する気もまるでなかったようだ。
「素浪人」は、侍だから当時の身分制度のなかでは上にいる人間のはずだが、どうもそれが逆転していて、権力の仕組みの外側を一人で飲んだくれて歩いているというような、自由の象徴みたいな感じがあった。その自分に対する自負の表現が、浪人の強調形である「素浪人」という言葉にこめられていたのだとおもう。
それが、同じ近衛十四郎、品川隆二の主演コンビで、タイトルが「花山大吉シリーズ」に変わると、主人公が表面上は同じく素浪人なのだが、実は公儀隠密、という設定になってしまい、子どもごころにものすごくがっかりしたものだ。「素浪人」と銘打ってるのに、公権力の後ろ盾があるんじゃ意味がない。このころから、テレビの時代劇というものは、面白くなくなったとおもう。
いまはたいてい、時代劇の主人公は役人かもっと偉い人か、後ろ盾のある人のようだ。そうでない人を主人公にした時代劇は、アウトロー的で、どこか暗い。「月影兵庫」にはそういうところはまったくなかった。ことの善悪はともかく、「素浪人」であることが単純にかっこよく、爽快であった。いまの時代劇から、そんな価値観を人々が感じとることは、まず無理であろう。

どうしてこんなに変わってしまったのか、とおもう。