タヒチの話

Arisan2005-01-29

今日テレビを見ていて知ったのだが、タヒチという所は、今でもフランスの領土なんだそうだ。これは国際政治上はどういう定義になるのかしらないが、以前植民地にした場所を、そのまま独立させずに保有しているということだろう。地球上には、まだ植民地とよべる場所がたくさんある。ポリネシアのフランス領の島々もそうだし、やはりフランス領やイギリス領のカリブ海やインド洋の島々、オランダ領スリナムとか、言い出せばたくさんあるとおもう。

「独立」だけで回復しないもの

ぼくは、フランスのような国が植民地をいまだに保有していることを、ずっとひどいことだと思ってきたが、では「独立」させればいいのかというと、どうもそう単純なことでもないことに気がついた。だいたい、こうした地域の人たちが、もともと近代国家におけるような「独立」という観念をもって暮らしていたわけではない。植民地にしたうえに、「独立」という近代出自の観念まで押し付けることが、いい結果を生むとは限らないだろう。
また、これらの地域の人たちは、単位となる人口が少なかったり、国土に出来る面積が小さすぎたりして、一個の国としてやっていくことは、国際社会の協力がないと無理なところが多い。だから国によっては、「自治共和国」のような中間的なものを作って解決を図っているところもあるわけだ。
パラオなどのように、独立した後に、国際社会と資本主義の荒波をもろにかむり、しかもこれは冗談ではないが海水面上昇によって国土が本当に波のなかに沈んでしまう危機に直面している国もある。海水面の上昇は「先進国」に責任のある地球の高温化のせいで、独立とは関係ないかもしれない。
しかし、タヒチの場合、フランスは社会福祉などで相当手厚い政策をやっているようだ。タヒチがもしフランスという大国の領土でなく、小さな独立国であったら、また「観光地」としての評価を国際社会から得られていなかったら、タヒチの人たちの暮らしは現状よりも苦しいものになっていたのではないだろうか。本当はそうなってはおかしいのだが、国際社会の「現実」はそうであろう。
これは、独立しないほうがいいということではない。小さな独立国が立ち行かないのは、そういう世界のあり方がおかしいからで、もっと公正な世界に変えていく努力をするべきだ、というかんがえもあろう。
だが、「独立」ということが、それだけで失われたものの回復を意味するとは限らない。むしろ本当に必要なのは、そういう近代的な枠組みの外でも生きられる可能性を、人々に回復することだろう。植民地支配というものは、その可能性に向かう力を奪ってしまうものなのだ。

二重の剥奪

タヒチの人たちが、「自分たちの国を作ってやっていきたい」というなら、フランスや国際社会はそれを支援するべきだが、「独立」という価値観を押し付けて、それを強制してはいけない。
植民地になった地域の人たちが、もともと近代的な国家のようなものを作っていたり、そういう観念をもって暮らしていた場合は、「解放」が「独立」という形態をとることにも妥当性があるだろう。しかし、タヒチのような地域の場合、そこに住んでいた人たちが、ヨーロッパの国々がやってくる以前に、どんな世界観をもって生きていたかということをかんがえると、この人たちに「独立しろ」ということは、一度植民地にしてその土地の文化や生活を破壊したうえに、今度は「国際社会のゲームの中に入れ」とあらためて強制していることに等しいのではないだろうか。つまり、固有のものを、二重に奪っていることになる。しかも、このゲームのルールがどれだけ「公正」なものであるかは、ブッシュ政権のやり方をみてきたぼくたちにはよく分かっているはずだ。
「独立国」なるものによって構成される国際社会というものがあって、すべての人々は、この独立国の国民であるべきだというのは、資本主義を発展させたりするために、欧米や日本などの大国が勝手に作り上げたルールだ。
「植民地にした」ということがまず第一の重罪であり、「国際社会」という自分たちのルールに適合するように「独立させる」ということが、それを上塗りする第二の重罪ではないか。
現実問題として、植民地支配という状態の解決を、「独立させる」という形でおこなうことは、植民地本国のご都合主義になる危険がおおきい。植民地にしておくことが色々な意味で割に合わなくなったから、「独立」させてしまう、というような。だが、それが本当の補償や回復につながることが、どのぐらいあるのだろうか。

色々なルールと「回復」

要するに、こうした問題は「独立」云々という近代的な枠組みだけでかんがえてはいけない。そうすることは、欧米、日本、中国、いまだと韓国などもそうだが、工業化の進んだ国や社会が地球全体の環境や固有文化を滅茶苦茶にしてしまったあげく、そうやって傷ついた人たちに向かって、自分たちが勝手に作り上げた「国際社会」や「市場経済」や「新自由主義」というゲームのルールのなかに、その大国たちと対等なメンバーとして参加しろと迫っていることになる。この人たちは、もともとそんなゲームとは縁もゆかりもないところで何千年も暮らしてきたのだ。
大事なのは、このルール以外にも、ゲームのルールはたくさんあるのだということを認めることだとおもう。それぞれのルールをもつたくさんのゲームがあって、そのさまざまなゲームに適した色々な人たちが生きている。
そのうえで、いろいろなゲームの参加者が協力して、傷ついたおおもとの自然を回復させるという方向にいかなくてはいけない。この「自然」というのは、人間のこころも、環境も含む。これは、全てのゲームの参加者の課題だろう。

本当は、独立しようがしていまいが、その人たちの生活の様式や環境を破壊し変えてしまったということに関して、植民地にした国を含めて国際社会が補償をし、援助していくというのが、ただしい植民地支配の解決の道であろう。「独立」するかどうかとは関係なく、破壊した側は、いや、というよりも世界中が、この傷ついた人たちが生きやすくなるために協力していくことが大事だ。そういう姿勢を見せただけで、他人のなかにも、自分のなかにも、「回復」していくものがきっとあるとおもう。
それは、他人に対する「清算」や補償であるだけでなく、最終的には、傷ついた共有のものをみんなで回復させるという行為だ。そこには自分と他人の区別はない。