今日の社会運動と「欲望の断念」について

テレイシアス  あなたは私の気性を責める、が、あなたのうちに住むあなた自身は見えぬらしい、そして非は私にあると言う。
(ソポクレス『オイディプス王福田恆存訳)


社会運動とひとくちに言っても多岐にわたる。そのなかには、人に関わるようなもの、特に社会のなかで差別や抑圧を被っていたり、不利な条件を生きている人たちに関わるようなものもあるし、環境保護や動物愛護、消費者運動、また反戦運動など、直接人間を対象とはしないものもある。
だがいずれにせよ、運動の主体となる人が、他の人間と関わりながら、他人を助けたり環境を守ったり、社会を変えていこうとする営みであることは、共通しているだろう。
つまり、直接の対象が人間であれそれ以外であれ、人と人との関わりというものが、あらゆる社会運動の基礎にあると言っていいはずだ。


これは当たり前のように思えるが、ある時期まではそうでもなかった。
ある時期というのは、具体的には冷戦の終結、もしくは「大きな物語」(リオタール)の終焉ということだ。それまでは、党(党派)の組織の規則や、理念の共有といったことが、社会運動の運動体の精神的(非物質的)な実質を構成する主要な要素だと思われていた。
こうした、いわば象徴的な機能が力を失うにつれて、社会運動における「人と人との関わり」という想像的な側面のリアリティが、浮かび上がるようになったと考えられる。

続きを読む

引き続き、野宿者強制排除の件

書きたいことがいくつかあるのですが、このところ書いている大阪市の公園の野宿者追い出しの問題が緊迫してきているので、今日もこの話題をとりあげます。
情報では、来週明けにも行政代執行(強制排除)が行われるかもしれない、ということです。


先日からトラックバックなどをいただいているp-navi infoさんやid:matsuiismさんのところで紹介・言及されている、『釜パトブログ』掲載の今回の件についての経緯説明の文書。
これは「失業と野宿を考える実行委員会」というところが出したらしいんですが、身内のMLで同じものがぼくのところにも回ってきました。
たいへん詳しく経緯や意見がまとめられています。


ここでは、ぼくなりにポイントをあげて、自分の考えを述べておきたいと思います。
(なお、今回の件についての大阪市への抗議の送り先は、上記の文の最後に記されています。)

続きを読む

行政代執行・生活保護・『デリダ、異境から』

昨日紹介したp-navi infoさんのサイトで、やはり昨日のエントリーのなかで、大阪市の野宿者をめぐる状況に関してぼくが使った「行政代執行」という言葉について、詳しく語られています。
ご覧ください。

http://0000000000.net/p-navi/info/news/200601171709.htm


この件に関しては、近日別にエントリーを書くかもしれませんが、今日はご紹介まで。


と、書いてたら、id:matsuiismさんが、同じ問題について記事をアップされました。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060117

この中で書いておられる、野宿者が「住所がない」ことを理由に生活保護を拒まれるというケースですが、16日のエントリーで紹介した日本テレビ系のドキュメンタリーでも取り上げられてました。「住所がないんだから、受給資格がないんだ」というふうに嘘を言って、申請しようとしたホームレス(野宿)の人を門前払いしてしまう自治体の職員の声が放送されてました。
これは、生存権保障というのは生活保護法で無差別平等に行われるということが定められていて、住所があるとかないとか、そういう条件によって差別的な運用をすることは出来ないはずなのに、現実には行政の窓口では往々にしてそういうことがあるらしい。
今の日本では、住所のない(いわゆる)ホームレスの人たちというのは、生存権を含めた基本的人権さえ、行政に認められないような状況にあるということですね。
あの番組で問題になっていた生活保護の「適正化」というのは、81年に当時のいわゆる「行政改革」の動きのなかで出てきた方針らしいんですが、その傾向のなかで現場のレベルではこうした違法な対応というものがあって、特に住所のない人たちというのはその被害者になる場合が多くあった。それが最近になって、国が自治体に生活保護の費用を押し付けようという動きが加速してきたために、そうした歪みがさらにひどくなってきてる、ということだろうと思います。


住所を持たない貧しい人たちが、行政の面でもどんどん追い詰められていく、そういう全体の枠組みのなかに今回の大阪の公園での動きというものがあるわけで、けっして社会の一隅で生じている特殊な出来事というわけではないことを、分かっておく必要があると思います。




ところで話は変わるんですが、上記のp-navi infoの運営者であるBiiさんから、当ブログで去年の春に二度ほど言及した映画『デリダ、異境から』についてのエントリーのひとつに、TBとコメントをいただき、記事をリンクしていただきました。

http://0000000000.net/p-navi/info/column/200601060347.htm

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050417/p1

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050424/p1


ここで紹介した上映後のトークの内容を付録として収録した本が、近日人文書院から出版される予定だそうです。
これは、この会を主催した甲南大学人間科学研究所というところが毎月発刊している「心の危機と臨床の知」という叢書の第七巻として出るものだそうですが、出版の日にちなどがはっきり分かりましたら、詳しくお知らせします。
エントリーの中にも書いたのですが、このときのトークでは、特に監督のサファー・ファティーさんと、ゲストとして来られた鵜飼哲さんとの対話のなかに、非常に興味深いやりとりがあったと記憶しています。
ぼくも、出版を心待ちにしています。


追記:ちなみに、人文書院のホームページはこちらです。『恋する虜』、早く再出版して欲しい。

http://www.jimbunshoin.co.jp/

だいたい一年

間抜けな話だが、そろそろブログ開設一周年になるので、なにか気のきいたことを書こうと思っているうちに、いつのまにか節目を過ぎてしまったらしい。
というか、書き出した日と、ブログを公開し始めた日の間にずれがあるので、正確にいつが一周年だったのかがわからない。
まあとにかく、丸一年は大体過ぎた、ということで。


所信といっても、今年年頭の「新年のあいさつ」
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060101/p1


に一応は書いてしまった。


そこで、今日はずっとこのサイトを見ていただいている奇特な方(もしおられれば)のために、「Arisan トリビア」を二つほど。

続きを読む

生きるための最低限のライン

年明けからの大寒波のため、東京では新宿で路上生活をしている人のなかから死者が出たと聞いた。東京に限らず、この寒さは野外で生活をしている人たちの生命を直接に脅かしているだろう。
路上生活で亡くなる人の数というのは、大阪市だけでも年間200人にも達しているそうなので、今冬の寒さで命を落とした方は、全国にもっとおられるのではないかと思う。
また、インドのニューデリーには、地方から出てきた約10万人の路上生活者がいるそうだが、今年はこの土地も前例のない寒波に襲われて犠牲者が出ているようだ。


日本のこの冬の寒波と大雪は、いわゆる地球温暖化現象に原因があるという専門家の見方が、先日の「ニュース23」で紹介されていた。
ヨーロッパなど近年世界中で起きている異常気象の多くが「地球温暖化」(ぼくは「高温化」というべきだと思うが)と関連があるという意見は、よく耳にするところだ。
それが原因で命を落としている人、これから落とすであろう人は、おびただしい数にのぼるだろう。
ぼくは、ブッシュ政権が犯した最大の悪は、イラクへの侵攻でも新自由主義的な政策と風潮の拡大でもなく、「地球温暖化」を促進したことにあるのではないかと思っている。


肝心なことは、環境破壊によるこうした気候変動によって、野外など人工性の低い環境で人が生きて生活していくことが、段々と困難になってきている、ということだと思う。
とりわけ都市部では、高温化などのため、空調の利いたドームのような人工的な空間のなかでの生活に多くの人々が過度に適応していく。その人工性を保つために、さらに環境破壊が進行して野外での生活はさらに困難になり、生命の維持さえ難しくなっていく。
ドームに入れないような貧しい人たちは死に、そうでない人たちはドームのなかの生活への過剰適応がすすむ。
そうなると、人工的な環境で生きることが、人間が生きることの基本的な幅、ということになってしまうだろう。
今の社会のあり方が続くと、こうした悪循環による「淘汰」と人間の生の幅の縮小、そして階層による人々の間の隔絶だけが広がっていく恐れがある。
それに歯止めがかからないのは、貧しくとも豊かであっても、とにかく「人が生きていくこと」という最低限の基礎的な条件が、社会のなかで重要なものと考えられていないからではないかと思う。



日曜の深夜、「生活保護」の現状を報じる日本テレビ系のドキュメンタリー番組を見た。
生活保護は、人が最低限生きていくことを保障する最後の政策上の歯止めであるわけだが、この番組によれば、日本では行政が支出を抑えるために「生活保護の適正化」という名目で、非常に厳しい審査を行って、給付しない、それどころか申請書さえ出させないようにする傾向が強まっていて、生活保護を受けられずに困窮し餓死していく人の数が増えているらしい。
現在生活保護を受けている人の数は年間約百万人であるが、受給資格があるのに受けられない人の数は、その10倍にも20倍にもなるのではないか、と番組では語られていた。
しかも、小泉政権下の改革によって、厚生労働省生活保護の費用を今後地方自治体に肩代わりさせるという方向で話が進んでおり、そうなると自治体は財政難のため、いっそう生活保護費の切りつめを行うことになるだろうから、生活保護が得られないままに飢えて死んでいく人の数が増えるのは必至の情勢だ。


国や自治体の財政という観点からすれば、不必要であったり不正な支出をなくしていこうとする努力は当然だろうが、現実に困窮する人が増大していて、死者まで出ているではないか。
人が最低限生きていけるようにするということが、緊急の課題として、なぜ政策の最優先事項とされないのか。
そういう社会の底辺(ボトム)の、ということはつまり「最低限のライン」での生存の保障ということが、重要でないと考えられるような風潮が、今の社会のあり方の底に根付いているような気がして仕方がない。


経済的な面でも、自然環境の面でも、『人が生きるための最低限のライン』の確保は、今の社会ではどんどん難しくなっているように思う。





そういうことを考えていたら、id:kwktさんのサイトで、たいへん興味深い記事を読むことができた。
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060114#p1


リバタリアニズムと分配的正義についての、森村進さんという方の講演を、kwktさんが詳しくまとめて感想を付記された労作だ。

ただ「最低限の生活を保障するためのある程度の富の分配は認めるというミニマリスト」としては、個々人の絶対的水準の貧しさに関心をもつが、相対的な格差を問題とはしない、とのことでした。

「社会におけるどのような存在に対しても無条件の肯定を与えるべき」という言説をよくみかけますが、僕もそうであってほしい・そうであるべきと思いますが、この言説とリバタリアニズムははたして本当に対立するのだろうか、と考えさせられました。


ぼくも、社会のなかでの自由な競争や、それによる貧富の格差の増大といったものを、一概に否定するような社会はよくないと思う。
上記の講演のまとめのなかにもあるように、累進課税というものが、その否定につながるような不自由さのあらわれになりかねないという危惧は、若い頃から一貫して思っていることだ。
森村さんやkwktさんのご意見、またエントリーの最後に紹介されている対談での議論の内容にも、基本的に異論はない。


だが、競争や工夫によって豊かに生きるにせよ、あえて貧しさを選択して生きるにせよ、そうした「自由で多様な社会」の根底をなすのは、人が生きていることそのものの価値に対する肯定、ということだろう。
生きるための「最低限のライン」(「絶対的な水準」)の確保というのは、そのことに関わっていて、つまり自他の生の根本的な価値が重視され肯定されることによってはじめて、富者の豊かな人生も、貧者の貧しいがゆとりのある人生も、共に本当の幸福を保証されるのだ、と思う。
さらに言えば、生だけでなく、死もはじめて、そこで真の価値をとりもどせるのではないか。


今の社会のあり方は、富者と貧者とに共通した人生の価値や自由の基盤である、この「生きていることそのものの価値」を忘れ去らせる傾向にあると思うのだ。
こうした社会のあり方は、貧者にとってはもちろん悲惨だが、自由や豊かさを信奉する人たちにとっても、その人生の本当の意味を得られなくさせるようなものになっているのではないか。
なぜなら、富を得て「上流」に入ろうとする人たちは、競争に勝ち残って豊かな人生を楽しむ目的で競争に励むのだろう。もし、この「人生」そのものが、幅の狭い限定的な可能性と価値しか持たないものだとしたなら、結局この人たちは、何のために努力し競争していることになるのか。
死ぬまでドームの中だけで暮らし続けるためにか?


自由や競争の肯定か、平等の実現かという二者択一は、さほど重要ではない。
重要なのは、今の社会では「自由」や「豊かさ」というスローガンに反して、その基本的な条件であるはずの「生きていることそのものの価値」が忘れられているということで、時代の流れに抗してその基本的な価値を再び見出すことが最先決なのだ。
そのとき、どんな条件であっても人が生存していけるような社会、世界を作っていくということは、理想論ではなく個々の生の幸福のための必要条件として見えてくると思う。
そこから考えれば、環境破壊の抑止や、制度による最低限の経済的保障の実現は、全ての人間にとって緊急の課題であるというべきだろう。

生活保護・強制撤去

下のエントリーに書いた、生活保護の現状を扱ったドキュメンタリー番組のことですが、内容を詳しく紹介しておられるサイトがあることを、id:kwktさんのブログ経由で知りました。

http://0000000000.net/p-navi/info/column/200601162023.htm


それと、同じサイトで、いま大阪市の靫(うつぼ)公園と大阪城公園ですすめられている、公園整備を理由に野宿している人たちのテントを撤去して追い出そうという動きのことが触れられています。

http://0000000000.net/p-navi/info/info/200601170334.htm


これは、ぼくも以前から話を聞いていたのですが、早ければ2月初旬にも行政代執行が行われる情勢のようです。
人の生命に直接関わる、由々しい事柄であると思います。


ことの経緯が詳しく書かれた署名文の内容を、友人のブログから以下に転載します。

続きを読む

「生きる意欲」と「否定的な感情」

先日のエントリーのなかで、
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060110/p1

ネオリベの風潮を批判するときに「労働の尊さ」のようなことが強調されるのに違和感をおぼえる、と書いたが、その大きな理由は、「生きる意欲」を誰でもがもっているという前提が、そこでは疑われていないように思うからだ。


別の言い方をすると、「労働の尊さ」を言う前に、「生きること自体の尊さ」という感覚が皆に共有されている必要があるはずだが、今の社会の現実はどうか。
それを共有するための努力が、十分になされているだろうか。
「生きること自体」に対する肯定的な気持ちがないのに、「労働の尊さ」だけを唱えるということは、人に歯車になることを強制しているのと同じではないか。


色んなところで話題になっている毎日新聞の「縦並び社会」のシリーズだが、この回は「フリーターの実態」ということのようで、やっぱりものすごく切実に感じられる内容だ。
そう感じる人は多いだろう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060112-00000001-maip-soci


はじめに出てくる自殺未遂をした青年の話だけど、「もう少し生きてみようかな」という消極的な感じは、すごくよく分かる。
今の世の中に多く存在しているのは、「もう少し生きてみようかな」と思わせる程度の仕事(労働)と、そのぐらいの「生への意志」であるのが現実だ。


ニート」ということがよく話題になるが、積極的に生きる意欲が乏しければ、「働く」意欲が湧かないのは当然であろうと思う。
「意欲があるけど、不況で仕事がない」(雇用問題)とか、「働かなければ生きていけなくなったら働くだろう」(国の財政の問題)ということだけでは、問題の本質に届かない。


「働く意欲」の前提であるべき「生きる意欲」をそがれた人たちが、世の中におおぜいいるという現実を見据えることが基本で、ではこの人たちから「生きる意欲」を奪っているのは何か、というふうに問うべきなのだ。

続きを読む