『ヴァレンシュタイン』

このごろ私どもが眼にするのは、
かつて百五十年前、ヨーロッパの国々が、
悲惨な三十年戦争尊い成果として喜び迎えた、
堅牢なはずの古い秩序が崩壊している姿です。
そこで、いまいちど詩人の空想を動員して、
あの暗かった時代を皆さま方のお眼の前によみがえらせ、
御一緒に、いまより朗らかな気持で現代を眺め、
希望に満ちた遠い未来に眼を向けようではありませんか。


 これから御披露する作品で詩人は、皆さま方を、
あの戦争の真っ只中にお連れいたします。
荒廃と略奪と悲惨の十六年が過ぎましたが、
世間はいまだ混沌を極め、
遠くを望んでも、どこにも平和の希望は見えて参りません。
国土は武器のたまり場と化し、
町々は荒らされつくして、
マクデブルクは廃墟となり、商工業も技芸もどん底の状態、
市民はもはや一文の値打ちもなく、怖いものなしは軍人ばかり、
天をも恐れぬ破廉恥が良俗を嘲笑し、
長い戦さで凶暴化した荒くれどもが、
荒廃した大地にのさばっております。(p17〜18)

ヴァレンシュタイン (岩波文庫)

ヴァレンシュタイン (岩波文庫)


上に引用したのは、このシラーの戯曲『ヴァレンシュタイン』が1798年10月にヴァイマル劇場で上演された時に朗読されたという、「序詞」の一節だ。
 先に感想を書いた『ヴィルヘルム・テル』があまりにも面白かったので、他にもシラーの戯曲を読んでみようと思ったが、簡単に手に入るものがなかなかなかった。
やっと、この代表作といわれる長大な歴史劇の翻訳を、近くの図書館で借りて、少しずつ読んでみたのだが、正直言って、よく分からなかった。どうも、長すぎるということもある。
 それで、他の人たちはどんな風に感じたのだろうと思って、ネットでいろいろあたってみた。
 そのなかで、特に、下のサイトに書かれていた要約と感想が、引用も極めて的確であり、優れていると思った。僕が要約を書くより、はるかに分かりやすいと思うので、ぜひ読んでいただきたい(僕は不勉強で知らなかったが、有名なサイトのようです)。


「敵国破れて謀臣亡ぶ− シラー著「ヴァレンシュタイン」」(『リアリズムと防衛ブログ』)

 http://www.riabou.net/entry/2015/02/07/000129


 というわけで、申し訳ないが、以下では上記の重要部分以外で、僕が気になったことだけを書くことにする。
 これは他にも書いている人が居るのだが、この戯曲で特に生き生きとして面白く読めるのは、三部構成の第一部と、第二部の初めの方、陣営のなかで酒に酔ったり口論したりしている兵士たちの姿や、謀略をめぐらせる幹部連中のうごめく様が描写されている部分だ。
 兵(傭兵)たちは、まさしく荒くれ者の集団で、殺戮にも略奪にもなんら罪の意識を抱いていない者も少なくない。たとえば、こんな調子だ。

第二の狙撃兵 その通りだとも!俺たちのことを聞きたきゃ言ってやるが、俺たちゃ、ヴァレンシュタイン将軍の荒くれ狙撃兵で、その名に恥じず、種まきしたばかりの畑だろうと、たわわに稔った畑だろうと、縦横無尽、敵の土地だろうと味方の土地だろうと、あたり構わず突進すらあ―ホルク軍団狙撃兵の角笛と言やあ、聞こえたものよ!遠くからでも近くからでも、ノアの洪水みたいに、素早くあっという間に俺たちゃ姿を現わす。ちょうど、闇夜に火事の炎が見張りのいない家に侵入するようなものさ―そうなりゃ、防ぐも逃げるもありゃしない。秩序も躾も糞もあるものか―戦争となりゃ、情けは禁物、娘っ子が俺たちのごつごつした腕の中でもがきもするだろうさ。(p35〜36)

しかし、ここで興味深いのは、諸国から集まってきて、今はヴァレンシュタインの指揮下に結集しているこの烏合の集団の、いわばアイデンティティが、「自由」ということにあるらしいという点だ。

 第一の重騎兵 この世に生を享けて何かを手に入れようとすれば、そりゃ、うんと働きもすりゃ、うんと苦労もするだろうさ。また、高い栄誉や地位を手に入れようとするなら、黄金の軛の下に身を屈するのもいい。また、父親としての仕合せを満喫し、子供や孫たちに囲まれて安穏に暮らそうってのなら、まともな職業に就いて平和に過ごすがいい!でも俺は―俺にゃそんな気持ちは毛頭ないね。俺は―俺は自由に生き、また自由のままに死にたい。誰の物も盗まず、誰からも相続せず、馬上からちょっと眼をそらして、眼下のつまらん営みを見下してやろうと思ってるんだ。


 第一の狙撃兵 ブラヴォー!それでこそ俺そっくりだ。(p70)

 こういう心理は、僕にはよく分かるし、(善悪はともかく)時代や社会を越えて共感されることの多いものではないかと思う。
 実際、後の国民軍などと違って、この時代(中世から近世の初頭)の下級兵士の多くは、あぶれ者の寄り集まり、流浪の傭兵集団であったというのは、日本でもそう変わらないところだろう。
 僕は、この部分を読んでいて、ジャン・ジュネの『泥棒日記』の冒頭部分に描かれた、国境を越えて流浪する大戦間期のヨーロッパの最底辺の群衆の姿とか、折口信夫がやはり戦前に書いた中世の流民・悪党についてのエッセイなどを思い出したのだが。
 とはいえ、シラーのこの戯曲は、そうした「自由」というものの内実、行末、あるいは裏面というものを批判的に、少なくとも冷徹に描こうとしたのだと言えるかもしれないのだ。


 さらに注意を引くのは、主人公ヴァレンシュタイン占星術への耽溺ぶりである。それは、彼が人間の生を根底で支配する運命(必然)的なものの力に触れ、それに魅入られてしまっていることを示している。
 下は、ヴァレンタインの述懐だ。

 (重々しく)偶然なんぞ、ありはせん。そして、わしらの眼にはでたらめな偶然に過ぎんように見えるそういうものこそ、いちばん奥深い底のほうから立ちのぼってくるのだ。(p304)

いいか、人間の行動や考えというものは、むやみやたらと荒れ狂う海の波とは違う。小宇宙(ミクロコスモス)と呼ばれておるわしら人間の内なる世界は、深い深い縦抗のようなもので、わしらの行為や考えは、いつだってそこから吹き上げてくるのだ。それは、木に生る実のように必然的なもので、偶然なんぞといういい加減なものによって変えられるものではない。わしは、まず最初にこの人間の核心を探究したのだから、人間の意欲や行動も、底の底まで知っておるのだ。(p305)

 こうしたヴァレンシュタインの性向に対して最も辛辣な批評を加えるのは、(ここでも)妻である公爵夫人だ。

 レーゲンスブルクでのあの不幸な日(引用者注:主人公が皇帝に最初に見捨てられた事件)、得意の絶頂から奈落へ突き落されなすったあの日以来、お父さまの上には、他人を寄せつけぬ落ち着きのない心、猜疑心に凝り固まった暗いお気持ちが襲いかかってきたのよ。お父さまは平静さをおなくしになり、もう昔からの幸運や御自分の力を喜んで信頼することがおできにならなくなって、あの暗い術に心を向けるようになられたの。あんなことに夢中になって幸福になった人なんて、昔から一人もいやしないのにね。(p337)

 ヴァレンシュタインの「運命」への耽溺が、ある種の精神的な衰退の表れであることが、ここでははっきり見抜かれているわけだ。
 

ところで、先日エントリーを書いたアイザイア・バーリンは、歴史についての「決定論」的な捉え方を厳しく批判したのだが、そこでいう「決定論」とは、必ずしもマルクス主義的なものだけを指すわけではなく、極めて広い射程を持っている。たとえば、フロイトニーチェのように(フロイト主義者やニーチェ主義者のように、と言うべきかもしれないが)、欲望や欲動の支配から人間の行動は結局逃れられないといった考え方も、「決定論」的な思考に含まれるのだ。

 コントロールすることができない非人間的な力に人間が左右されていると示唆して、人間を驚ろかすのは、超自然的な力、全能な個人、かくれた手という観念などの虚構を抹殺するためと称しながら、実は別種の神話をつくり出している。(バーリン『自由論』 p49)

 欲望や欲動といった「非人間的な力」の支配を絶対視して、その摂理のようなものを見出すことで「運命」に逆らわない生を歩もうというヴァレンシュタインのような態度は、絶対的な法則を探究する客観的・中立的な「知」の態度のように見えて、実は、その力に進んで屈しようとする欲望の表れである。つまり、それはすでに、一つの屈服(非自由)なのだ。
 公爵夫人の言葉は、占星術という「暗い術」(運命への知)に耽溺する夫の態度の中に、この屈服とそれへの意志を見据えているのである。
 この「非人間的な力」への(自発的な)屈服という点において、第一部に登場した無名の兵士たちも、ヴァレンシュタインと全く同じとまでは言わないまでも、よく似通った要素がある、というぐらいのことは言えるだろう。
 もちろん、流浪し、時には兵士となることもある全ての庶民・貧民が、必ず人間としての真の「自由」を手放す結果になるとまでは、言い切れないにしても。