共感の回路

昨日、1月30日に行われた靭(うつぼ)公園での行政代執行に関することを書いた。


あの日の抵抗については、自分がほとんど参加しなかったということもあり、客観的なコメントはしづらい。
それを目にするなかで自分が実感した一番大きな事柄が、「共感」というものに関係していることは、昨日書いた。「共感」のある人間と、「共感」のない人間がいる、などという二分法的なことではなく、同じ人間であっても他者との関係において「共感」の生じる回路に入る場合と、そこから外れる場合があり、ある種の社会システム(実にさまざまだろう)には、人をそこから外す働きがある、ということだと思う。
あの時、ぼく自身はあるところで、そこから外れてしまっていたように思う。


「共感」というものを、たとえば同胞愛のような実体的なものにとったとき、そこには「他者の排除」(敵の創出)という裏面が含まれるだろうことは見やすい。
ハンナ・アーレントも、このような視点から「共感」に対しては鋭い批判を加えていた。彼女は、「共感」を三つに分類する。一つめは、富めるものの貧しいものへの憐憫であり、二つめは虐げられたもの、貧しいもの同士の連帯感、すなわち同胞愛である。
そして、20世紀までの人類の歴史は、この二種類の「共感」が、結局は不平等や社会の分離の固定と、暴力の増大しか生み出さなかったと断じた。
だが、それ以外に彼女は、そうした不幸につながらない三つめの「共感」がありうることを示唆し、そこにだけ今後の世界の可能性はあると考えた。それは、「殺される者が、殺す者に対して投げかける憐れみの眼差し」に含まれるような「共感」であるという。
ある意味でそれは、人間が持ちうる「共感」の能力の、もっとも根源的な姿であるといえるだろう。
ぼくは、あの場所では、いくどかそういうタイプの「共感」にふれたと思う。
むしろそのことが、ぼくを打ちのめすのだ。


だが、こうした「共感」は、どこかに実体的に継続してありうるものではないだろう。
あえて言えば、この「共感」は人間が「弱くありうる能力」に関係していると思う。だがどんな人間も、常に弱くありうるほど、強くはない。「共感」が常にその根源的な可能性を開いた姿でいることは、たやすくないのだ。


ところで、ぼく自身はなぜ、あのとき「団結テント」を守る輪の中に加わらなかったのか。
もともと、「自分の目で出来事の全体を見て報告する」ことが自分のやるべきことだと考えていたことは、きのう書いた。
そのことは、輪の中に加わっても可能だったと思う(むしろ、そのほうが本当の「全体」が見えたかもしれない)が、そうすることは自分の自由意志に反しているような気がして、そうしなかったのだ。ぼくが自分を他人の目線で見て、この判断は責められるものではないと思う。
テントを守ろうとする人たちの連帯の強さや美しさに、ぼくは共感し、それを支持するが、自分のすることは別の行動であってよい。
ぼくが自分を責めるべきだと思うのはそのことではなく、どこかの時点で、ぼくが上記の根源的な姿における「共感」の回路を自分のなかで塞いでしまったのではないか、ということなのだ。
それはどの時点だったのか。テントを守る輪から離れたときに、自分を正当化するために、無意識に塞いだのか。それとも、もともとずっと昔から、それは塞がれたままなのか。
ともかく、少なくともあのとき、自分の目には、「共感」によってのみ視界が開かれうる「世界」のあるべき全体の姿は隠されていた。ものすごく狭い視野からしか、「世界」を見ることはできなかった。この「視野の狭さ」は、肉体的な実感である。
「共感」の欠如は、世界を不可視にしてしまうのだ。


だとすれば、あの日日本中のテレビに映し出されていたものは、果たして何だったろうか。


http://0000000000.net/p-navi/info/column/200602020015.htm
http://0000000000.net/p-navi/info/column/200601302155.htm
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200601301932.htm

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