敗北から学ぶべきこと

共同通信の記事によると、今回の選挙で自民党が得た得票は、民主党が得た票の約1・3倍。一方、獲得した議席の数は、自民党民主党の2・7倍。
実際の得票数と議席数とのこの開きは、小選挙区制の特性によるもので、こういうことが起こりうる制度だから場合によっては政権交代も起こりやすい、という触れ込みで導入されたのだ。
だから、もともとこの制度に賛成だった民主党としては、今回の大敗は自業自得ともいえるし、実際次の選挙では(こういう地すべり的な現象が起きやすい制度だけに)民主党が勝つ可能性もある。
ともかく、「改革」にせよ「改憲」にせよ、本当のところは自民も民主も大差はないわけで、大きなひとつの固まりの中でどちらが勝った負けたといっても意味がない。
まあ、共産党社民党の言い分としてもそうだろう。
それは分かっているが、今回の選挙では、ぼくは小選挙区では支持したい共産や民主ではなく、あえて民主党の候補に入れた。ぼくのところの選挙区では、自民と民主の候補が一騎打ちムードで接戦になると思われたからだ。
つまり分かりやすく言えば、「改憲」阻止よりも、小泉式の「改革」とその政治手法にNOを突きつけることが、今回は優先すると思ったからだ。民主党の候補者が、かりにどんな極右政治家でも、ぼくは入れただろう。
この判断は間違っているかもしれないが、今回はそれ以外の投票行動が考えられなかった。それほど、今回の選挙は決定的な意味を持つとおもわれた。


しかし結果は、自民の大勝となった。
もちろん、民主党の負けなどはどうでもよい。
考えたいのは、きのう少し書いたように、今回多くの人たちが、「政治や社会変革に直接参加できる」という充実感や高揚感から、小泉を支持し、自民党に「風」を吹かせたのであろうということ、そしてこのことが持つ意味についてだ。
普段日本の政治における政策決定は、国会の中や霞ヶ関のなかで、有権者には手の届かないところで行われている。候補者たちは、選挙のときだけは公約を口にするが、その後行われる実際の政策決定の過程と、自分たちの投票行動とが明確に結びついているという意識を、多くの日本の有権者はもてないできた。
このことに、無力感とシニカルな感情の底の、フラストレーションがつのっていたと思う。
これは、間接民主制の一般的な限界ということだけでなく、行政主導のいわゆる「日本型システム」の特殊性や、選挙以外の市民の政治行動が法的にも(デモや示威行動を規制する法規の厳しさなど)、また社会全体の意識のレベルでも抑圧されていることなど、
色々な理由が絡み合って生じたフラストレーションであろう。


小泉の手法は、そこに的確に働きかけた。自分は世の中を変えることに対して、無力であり「用なし」だと思って失望していた人たちに、「あなたたちの力が必要なんです」と訴えかけたのだ。
彼が「郵政民営化」に争点をしぼったことの効果は、ここにある。
多くの人たちは、自分たちが「用なし」ではなく、力があると認められ、その力を貸してくださいと訴えられたことによって、「政治と変革に参加するのだ」という高揚感を強く感じ、はじめて投票所に足を運んだ。


その投票行動は、結果的には誤りであると、ぼくは思う。
郵政民営化」への争点の一本化は、たしかに小泉の政治的詐術であろう。また、マスコミが偏った情報しか流さなかったということも、たしかだろう。
だが忘れてならないのは、小泉の戦略は多くの大衆の心を間違いなく動かし、それを批判する側は、それを動かせなかったという事実である。
人々の無力感や、言葉にさえならないフラストレーションに、左翼勢力はどれだけ働きかける努力をしてきたか。電通や大マスコミの陰謀を云々する前に、自問するべきことがあるはずだ。
小泉に対するこの敗北から、小泉式の政治や「改革」に反対するぼくたちが、学ぶべきものは多大である、とぼくは言いたい。そうでなければ、このたたかいは負け続けるだろう。
いや、左翼勢力の負けなど本当はどうでもよいが、この人たちが守ろうとしているはずのものを、それでは守れないのだ。