メゾン・ド・ヒミコ

ひと月前、『リンダリンダリンダ』を見たとき、これは今年最高の邦画だろうと思ったが、また素晴らしい作品を見ることができた。
犬童一心監督の新作『メゾン・ド・ヒミコ』である。
http://www.himiko-movie.com/


リンダリンダリンダ』はすでに書いたように、最高の「青春映画」だった。それは高校生を主人公にしているからではなく、また作った人が若いからということでもなくて、「青春」という切断面において人生と世界をとらえた映画、という意味だ。
言葉を換えて言えば、それは「破壊」の映画である。ブニュエルゴダールの映画と同様に。
これに対して『メゾン・ド・ヒミコ』は、「大人の映画」だといえる。その意味は、「死と欲望」という一組のものを正面から描いた作品だということだ。
それは「成熟」というよりも、むしろ「衰退」の、あるいは「滅亡」の映画である。
ビスコンティの作品が、やはりその代表として思い浮かぶ。特に、『地獄に堕ちた勇者ども』が。
だがそれはまた、滅亡を経由した再生の物語であるかもしれない。
メゾン・ド・ヒミコ』は、それを感じさせる作品である。


ある海辺の土地に、年老いたゲイの男たちが集まって暮らしている洋館(メゾン・ド・ヒミコ)がある。その中心となっている人物は、「ヒミコ」という名の、伝説的なゲイバーのマダムだった。その若い愛人である男は、死を間近にしたヒミコのため、父に捨てられて今は別に暮らしているその娘を、メゾンに雇い入れる。
娘は、自分と亡くなった母とを捨ててゲイとしての人生を選んだ父への反発も手伝って、メゾンでのゲイの男たちの共同生活に馴染めず、露骨な反感や嫌悪を示しさえする。
映画は、このへんの心理的な距離の存在とその変容を、非常に繊細に描いている。


この娘を演じているのが、柴咲コウだ。
ぼくは、この人の芝居を、スクリーンでははじめて見た。
もともとは、小さな会社で働いている事務員の女の子の役である。それが、ものすごく「ふつう」なのだ。一見、単調な日常にうずもれて弛緩している感じであり、その凡庸で華のない印象が、舞台がメゾンに移ってからもしばらくは続き、虚構に満ちて寂しいが華やかな年老いたゲイの人たちの生活の空間との対比を作り出す。
だが映画がすすむにつれて理解されてくるのは、この女性が、幼いときにゲイの父親に捨てられ、その後二人で暮らしてきた母親とも病気のため死別してしまい、ずっと心に鍵をかけて日々を生きてきたのだ、ということである。
柴咲コウは、その内面を演じていたのだ。


日が経つにつれて、そして、父親や他のゲイの老人たちの、死に隣接した生の時間と触れ合うことで、この女性の心は次第にほぐされていき、本来のみずみずしさを、その容姿と一緒に取り戻していく。
この回復の過程を、柴咲コウは見事に表現していた。
なるほど、この若い女優さんは実力がある。ひょっとすると、シーザリオ級かもしれん。


共演者、ヒミコの若い愛人である美しいゲイの男性を演じたのは、いまをときめくオダギリジョーだ。
いつもながらいい。特に、死に瀕したヒミコの病床で、「欲望が欲しい」と口にするシーンの切実さは忘れがたい。「死と欲望」という大きなテーマが、見事に凝縮されて表現されていたと思う。
再生産という物語をともなわないときに、死と欲望との結びつきの不可避性は、とりわけあらわになる。同性愛の人たちを描いた映画や小説で、このテーマがしばしば大きくたち現れるのは、たぶんそのためだろう。


また、ネタバレになってしまうので詳しく書けないが、日本の映画の歴史に残るのではないかと思うような強力なシーンが、後半に登場する。そのシーンを見たときに、ぼくにとってこの映画は、「勝負あった」となった。
どのシーンかは、見た人は想像してみてください。


だが、なんといってもこの映画で圧倒的な印象を残すのは、ヒミコを演じる田中泯の存在感だろう。
鬼気迫るほどの色気である。性差だけでなく、映画という枠さえ越えている。
いまこういう中年以上の男性の俳優が、どれぐらいいるだろうか?彼の存在がなければ、この映画の成功は困難だったと思う。


ところで、主人公の若い女性は、メゾンでの生活をとおして、なぜ「回復」をとげていくのだろうか。
それは、この外部の社会から隔絶した、年老いたゲイの人たちの共同体のなかで、彼女がなにを感じとり、なにを受取ったか、という問いに重なるだろう。
死に瀕した父親と、この場所ではじめて彼女は「他者」として向き合い、自分の本当の気持ちをぶつけていく。それに対する父親の返答は、素晴らしいものである。
この「出会い」を可能にしたのは、メゾンの空間と時間であったのではないか、と思う。


人が自分として生きるとはどういうことか、他者との関わりをとおして自分自身になっていくとはどんなことか、そして人間にとって他者の死や老いとは、また世代の継承とはどういうものか。
この映画は見る人にさまざななことを考えさせてくれる作品である。


一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。