あらためて「強制的授受」について

読者の方から、先月21日にid:ueyamakzkさんの文章についての感想を書いた記事に、コメントをいただいた。
そこで、あのとき書き残していたことを、少し書いておきたい。これは、上記の文章とは直接関係ないかもしれないが、ぼく自身が思い浮かべたことです。

鵜飼哲氏の著書から

それは、鵜飼哲氏が『償いのアルケオロジー

償いのアルケオロジー (シリーズ 道徳の系譜)

償いのアルケオロジー (シリーズ 道徳の系譜)

というたいへん優れた本のなかで書いていたことについてだ。それは、人間にとってなぜ「心から謝る」ということがたいへん難しいのか、という話で、こんなことが書いてあった。人間が生まれてから最初に覚える言葉はなにかというと、「はい、いいえ」のような簡単な語は別にして、ちゃんとした文の形をとったものとしては、「ごめんなさい」とか「ありがとう」だろう。人は、これらの言葉を口にすることによって、言語の世界というか、要するにもっとも広い意味での「社会」に参入していく。
ところが、このときの体験というのは(これは多くの方々に覚えがあるのではないかとおもうが)、言いたくないことを言うことを強制されるという「理不尽さ」(これは、ぼくの言葉です)の感覚を伴っていたはずだ、というのである。
人は、言いたくない謝罪や感謝の言葉を無理に言わされるという、納得しがたい屈辱的な体験を通して、この社会に入ってくる。そのために、「ごめんなさい」とか「ありがとう」という言葉を、表面上ではなく心から用いることには、小さからぬ抵抗感がかならず伴うはずだ。これが、「心からの謝罪」といった事柄が、人間にとって困難であることの最大の理由ではないか、ということを鵜飼氏は書いていた。


これは、ぼくにとっては、非常に「身に覚え」のある話で、小さい頃、「ごめんなさい」とか「ありがとう」という語を強制的に言わされるのが嫌で、異常なほど大人たちに抵抗した記憶がある。じつは幼児期の記憶のなかで、そのことだけが異様に鮮明だ。というよりも、この記憶はぼくのなかで、「過去」にはなっていないのだろう。
いまでも、こういう言葉を言えと親たちに強いられて頑なに抗っている幼い子どもを見るたびに、ほほえましくもある反面、自分の体験をかすかに思い出して、いまこの子どもは主観的にはたいへんな戦いの場に一人でいるのだろうな、という気がして、なにか厳粛な気持ちになることがある。


ぼくが、「権力」といった語を頻繁に否定的な意味で用いるということ、またにもかかわらず「反権力」的と呼ばれるものを含めた「集団的」な雰囲気や場がひどく苦手であるということも、そうした幼児期の記憶に関係しているのかもしれない。
鵜飼氏は、『償いのアルケオロジー』のなかでは、この問題を、共同体や文化による「謝罪」の様式の差異ということにむすびつけて考えられていたとおもうが、その点はぼくにはよく分からない。
ただ、上に書いたようなぼくの体験の記憶が、個人的な特異性をもつものである以上に、どの程度まで文化や社会を越えた一般性(普遍性?)をもつものであるのかは、即断しがたいところがある(たぶん、相当議論の分かれるところだろう)。
ただ、この話は、自分にはよくわかる点があった、わかるように思えたということだ。


id:ueyamakzkさんの「強制的授受」という言葉にふれたとき、ひとつにはそのことを思い出した。
あのサイトの文章を読んでぼく自身が思い浮かべた、「自ら選んだ(望んだ)わけではないのに、この現実のなかに存在してしまっている」という「不当さ」の感情が、むしろ社会的(言語的)な性格を持っているのではないかとぼくがかんがえたのには、このことも関係していたのである。
このことと、出生という起源における「強制的授受」という事柄(id:ueyamakzkさんの文章の注の部分を参照)ということとを、結びつけてかんがえられるかどうか、はっきりとはわからない。だが、自己というものの成立が言語にかかわっているとすると、その可能性はあるだろう。

「強制的授受」という言葉から考えること

もうひとつ、「強制的授受」という言葉を聞いてかんがえるのは、人間はどのような「授受」を特に「強制」とかんじるのか、ということだ。
たとえば、日本国憲法を占領軍による「押し付け」である、ととらえる意見はよく聞くが、自分が日本国民に生まれたことを「押し付けられた」と感じている人はあまりいないようだ。
もしぼくが、日本国籍以外に生まれていたらどうであろうか?その立場を制度による「強制」ととらえるかどうかはわからないが、国籍というものの恣意性を、いまよりも強く意識するようにはなっていたのではないか。


所与の現実的な条件について、「自分が選んだもの」と、「授受」との二通りがあると仮定してみよう。授受には、これを「強制されたもの」ととらえるか「贈与されたもの」ととらえるかの二通りがある。後者ならば、「不当さ」の感覚は生じないのだろうか?
つまり、これは結局「有利な立場を与えられたか否か」という、損得の問題にすぎないのだろうか。
そうではなく、そもそも自分が選んだものでない現実を背負わされていること自体が、「不当」とかんじられることがあるはずだ。ぼくが言っている「不当さ」とは、それを指している。


ここから、二つの問いが出てくる。
ひとつは、「贈与されること」がなぜ不当さの感覚を伴うのかということ。その答えは、この「贈与」が、返済の義務を伴うものとして感じられてしまうからだろう。「贈与」から、この「返済の義務」という社会的な要素を抜き取ることができるなら、別の大きな道が開けるかもしれない。これは、『償いのアルケオロジー』にも書かれていたとおもうが、経済や社会や宗教の根幹にもかかわる、すごく大きな問題だ。
もうひとつは、「自分が選んだもの」と「授受」とは、本当に分けられるのか、ということだ。改憲の是非をめぐる議論の底には、この問いがある。「いまの憲法は与えられたものだが、自分たちで選んだものでもある」という主張がありうるのだ。ただし、その主張から護憲論しか出てこないわけではない。「自分たちで選んだものだからこそ、自分たちで変える」というかんがえも成り立つ。
それはまた、「自発性」とは何か、という問いにもつながるだろう。


以上、長々と書いてきましたが、また機会があったら書きます。