歴史というもの

ぼくの友人で歴史研究者の小埜田君が、NHKの番組改編(改変)問題について、じつに立派な意見をブログに書いているので、是非一読されたい。

http://blog.livedoor.jp/masatix/archives/12662524.html

ぼくの意見は、これに特に付け加えることはない。

ところで、これとは直接関係なく、歴史に関して最近漠然とおもっていることを書いてみたい。
歴史がなぜ大事かというと、一回限りのものだからだ。起きた出来事についての受取り方や解釈はさまざまにありうるが、出来事それ自体としては、誰にとってもただ一度きりのもので、この一回限りのものを共有しているというところで、人と人とがつながるのだとおもう。最近、そう考えるようになった。
歴史が一回限りであるということは、だれにとっても同じ一つの大きな歴史しかないということではない。人の数だけといったらいいか、無数の歴史があるだろう。だが、歴史が一回限りであるということを自覚したときに、この無数の歴史が無数なままに、ひとつにつながりあうのである。
歴史が一回限りのもので、それが「大事だ」というのは、そういう意味だ。

こういうものとして歴史が感じ取られるためには、それぞれの人が、自分の人生を一回限りのものとして感じ取っている必要がある。おそらく誰でも持っているはずの、その感じ取る能力を、人が忘れてしまわずにいるためには、自分の一回限りの人生を大事でかけがえのないものにおもってくれる、自分以外の人たちが必要であり、その人たちの一回限りの人生をかけがえのないものであるとおもう自分自身が必要なのだ。
そのつながりあいだけが、人に自分の人生を一回限りのかけがえのないものだとおもうことを可能にしてくれ、そこから歴史を一回限りのものとして慈しむ感情が生まれてくる。

そうぼくはおもう。

いまの人たちは歴史というものを大切にしていない、と嘆く声をよく耳にするが、これはある意味では無理のないことだ。不幸にして、自分の人生が一回限りのかけがえのないものであるということを感じ取れないできた人たちに、歴史の大切さが実感できるはずはないのだ。
この人たちが、いや、ぼくたち皆が、自分が生きていることの本当の価値を見出せたときにだけ、歴史はぼくたちの社会のなかによみがえるだろう。
原野の夕映えのように鮮やかに。

あるサイトの文章から

先日、id:ueyamakzkさんのサイトで、以下の文章を目にし、たいへん感銘をうけてご本人にメールで感想を送った。
ぼくとしては、ここでこうした繊細であったり実践的な大事な事柄について言及するのはたいへん心苦しいし、少なからず迷うところもあったのだが、ご本人から「ブログに書いてみられては」との言葉もあり、また何より読者のみなさんそれぞれに資するところがあろうかとおもうので、あえてここで紹介し、感想などを書くことにしました。

「深い溝」を越える

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050115#p3


ぼくがこの文章のどこに感銘を受けたかというと、

『「死滅した自発性」と「社会構造」の間には、越えるに越えられない深い溝がある。社会参加を自明と見なしている人は、そこをいつの間にか飛び越えているのだが、その幸福さに気付いていない。だからその幸運さを自明と見なし、その幸運に恵まれなかった人間の脱落を「甘えている」と見なす。』

という部分である。これは、ぼく自身が「死滅した自発性」と「社会構造」のどちらにより近い位置にいるかということをこえて、深いところで「思い当たる節」のある言葉だった。おそらく、誰にとってもそうだとおもう。
ぼく自身も、この「深い溝」をかつて飛び越えられた「幸運さ」を忘れ、そんな溝などありもしないかのような顔をして、日常の生活を送っている一人だ。このブログのはじめに書いた「ぼく自身の権力性・暴力性」というのは、その厚顔無恥さを指しているのである。
「ひきこもり」と呼ばれている人たちは、上に書かれているこの「深い溝」に対して鋭敏で誠実な人たちなのであろう。おそらく書かれたご本人の意思をこえて強い言い回しになってしまうのだが、ぼくに言わせれば、この「深い溝」に対する鋭敏さを失ったところに、どんな「社会性」も「自立」も本当はあるはずがないのだ。なぜなら、この「深い溝」とは、他者との隔たりだから。このことは、ぼく自身への自戒を込めて言っているのだ。
ぼくは、この文章を読んだときに、人の心の本当のことをごまかさずにみている人がここにいるのだとおもい、感嘆すると同時におそれをかんじたのだ。

「脱却」の難しい社会

ここからちょっと別の話になるのだが、別のところで、「ひきこもり」の人にとっては、「『親密な仲間ができた』状態から、『独立した経済生活』へのハードルが実は一番高い」という発言が紹介されている。

http://d.hatena.ne.jp/about-h/20050111/#p1

これもたいへんよく分かるのだが、むしろぼくが体験から思うことは、これは、たんに「ひきこもり」の人が「社会に復帰する」のはたいへんだという、主観的な問題だけに還元してしまえることではないのではないか、ということだ。
いまの労働の現場でアルバイトの人たちがさらされている不安定な精神状態というのは、「ひきこもって」家にいる人たちのそれと、決定的には変わらないのではないかとおもうのだ。「ひきこもって」いた人にとっては、せっかく職場に入ってみても、精神状態としてはそれまでとあまり変わらない環境にいることになってしまう気がするのだ。だから、ちょっとしたことで、すぐ以前の状態にもどってしまう。
アルバイトなどをするようになるということが、本格的な「社会復帰」に結びつかないということには、そういう社会的・客観的な理由があるのではないだろうか。
つまり今日では、バイトやパートの人たちの労働は、「独立した経済生活」に結びつくような就労とは、程遠い条件におかれている。「働いているか、いないか」というところで線を引いてしまえば、「ひきこもって」いる人と、フリーターの人とはまるで違うのだが、社会の仕組みのなかで客観的におかれている不安定な状態という面では、両者は同じところにいるともおもえる。「独立した経済生活」へのハードルの高さというのは、そういう社会全体のいまの現実に目を向けなければ十分に理解できないのではないだろうか。

だから、「ひきこもり」の「社会復帰」の難しさという問題には、そういう社会的・客観的な側面がある。そういうふうにみると、「ひきこもり」と「フリーター」との違いよりも、「フリーター」と一般の「労働者」(社員、職員など)との違いの方が大きいようにもおもえるが、もちろんこの「労働者」という人たちも、いまはすごく不安定な、そして厳しいところにおかれている。そこで、この人たちが「フリーター」の人たちと「労働者同士」の関係をもとうとすると(職場では、それを外して「人間的な関係」というのは難しいとおもうのだが)、この人たち自身がすごくしんどいことになってくる。だから、「ひきこもり」や「フリーター」と同じように、「労働者」の人たちも、いわば「人間的な関係」を断念して自分の殻のなかに閉じこもりがちになる。
そう考えると、経済の構造というのか、社会全体のあり方がみんなを消極的なところに閉じ込めているために、せっかく「ひきこもり」の人たちが職場に入っても、家に居るときとそんなに変わらない精神状態になってしまい、「脱却」が難しくなっているのではないだろうか。
いますぐ何をどうしたらいいということはいえないが、いろんな立場におかれているそれぞれの人が、(みんなそれぞれの言い分もあるだろうが)そんなふうにものを考えることを少しずつやっていかないと、どうにもならないところにきているようにおもう。