「暴力性」の話を振り返って1

ベンヤミンの暴力観について

ベンヤミンドゥルーズ=ガタリについて勝手なことを書いているので、他の人たちはどんな読み方をしているのか調べようとおもってインターネットで検索してみた。驚いたのは「暴力批判論」を論じてる人がすごく多いということだ。それだけ魅力的な論文なのだろう。分量が少なく、すぐ読みとおせるのに、読めば読むほどわからない部分、言いきれない部分がでてくる。欠点もある論文だと思うが、並外れて鋭いことは間違いない。
ただ、ここで「神的暴力」ということを言ったためか、ベンヤミンを暴力肯定の思想家とする見方もかなりあるようだ。あんなに非暴力的な人はいないと思うんだけど。
「神的暴力」にしても、ドゥルーズたちとは違って、非常に苦しんで、やむをえずという感じで出してきているようにおもう。「神話的暴力」を肯定して終わりそうなところで、またそれが権力的だということを暴いて、そこからもう一度可能性を探すわけだから。ベンヤミンの暴力に対する態度は、ものすごく入り組んでいる。
それにくらべて、DGの場合は、確信をもって価値観をひっくり返そうという、明るさのようなものがある。そこが魅力だろう。

この差は何かとかんがえると、やっぱり社会的な位置の違いがあるんじゃないかなあ?
ベンヤミンの場合、「暴力批判論」が書かれたのは1920年ぐらいで、まだナチスは台頭していないが、ヨーロッパには「ポグロム」のような、公権力に扇動された部分があるとはいえ暴徒化した一般市民によるユダヤ人迫害の歴史というのがあって、『東方ユダヤ人の歴史』

東方ユダヤ人の歴史

東方ユダヤ人の歴史

という本などを読むと、この時代にもそういう雰囲気が続いていたはずだ。ユダヤ人であるベンヤミンにとっては、国家による暴力(法の暴力)さえ批判すればそれでいい、というわけにはいかなかったんじゃないだろうか?
DGの場合、どうもそこの感覚がベンヤミンとは違う気がする。どのぐらい違うのかがわからないんだけど。
じつは、ドゥルーズ=ガタリのこともベンヤミンのことも、少し本を読んだというだけで、基本的になにもしらないのだ。

自分に向かう暴力

DGについては、書きたいことが山ほどあるんだけど、ひとつ戦争機械のことで、言い忘れていたことがある。
それは、なぜぼくがいまの若い人たちの自他への「暴力性」に何かポジティブな可能性があるのではと思ったかということで、経験的にはいろいろあるんだけど、言葉から入ったものとしては、『千のプラトー』のある一節を読んで思いついたのだった。
それは、これはぼくが読んだことのない作家だけど、クライストという人の『ペンテジレア』という作品に関して、次のように書いていることだ。

国家が凱歌を揚げるとき、次のような二者択一に追い込まれるのは戦争機械の運命なのだろうか。つまり、国家装置の規律にしたがった軍事機関にしか過ぎなくなるか、それとも、自分自身に攻撃を向け、孤独な一対の男女の自殺機械になってしまうか、という二者択一である。(p411)

DGは、戦争機械というものが、国家に所有されてしまうことによって、その大きな生の可能性(「変異の力能」)が奪われ、たんなる「軍隊」という戦争のための組織に変わってしまう、とかんがえていた。同時に、そうなった場合、この戦争機械と呼ばれる大きな生の力は、自分自身に攻撃を向けて自殺まで行ってしまうという面もある、といっているわけだ。
これを読んだときに、若い人たちが自分自身に向ける暴力性とか強い否定性というのは、ぼくはいままでよくないものとばかりかんがえてたけど、大きな可能性をもった力が方向を無理やり歪められたものだともかんがえられるのでは、と気がついた。
そうかんがえだすと、これはベンヤミンの「神話的暴力」の叙述にも関係するが、他人に対しても「キレル」ということがよくいわれるけど、この直情的な怒りの暴発というものも、どこかに未知の可能性を秘めているのではないだろうか。
そういうふうに見方を変えてみたらどうなるか、と単純におもったのだ。そんな単純なことなのだが、本が好きなせいで、ずいぶん難しい話にしてしまったかもしれない。
でも、こういう話もまだまだ書きたい。