否定的な感情と暴力性

最初に何を書いたものかと考えたのだが、今までと現在のぼくの生活に鑑みて、自分のなかにある否定的な感情とか暴力性という話から始めるのが、妥当ではないかと思う。
ぼくが思うのは、若者に限らず、現代の特に日本の社会に生きる多くの人たちが、自己や他人に対する否定的な感情を抱えているということ、そして、このこととどう重なるのか定かではないが、この人たちは暴力的なあるいは破壊的な衝動を内に持っているようだ、ということだ。
そこで、これらのことについて、自分の体験を踏まえて色々と考えてみたい。

ここでことわっておきたいことは、ぼくには「ひきこもり」や「自傷行為」や「拒食」など、重い心の苦しみを抱えている人たちのことは、決してわからないだろうということだ。
だから、これから書くことを、そういう人たちに直接に結び付けて読んでもらっては困る*1。  
これは、ぼく個人のことであり、むしろ誰にもいくらかは当てはまるはずだ、と考えながら読んでください。

この社会・文明が持つ暴力性

さて、ぼくは人生の大半を、経済面や生活上のことを親に頼って生きてきた。そういう自分について、親という他人を道具化しているという意味で、自分は暴力性や権力性を他人に対して振るう側にいるのだという意識がある。
ここで重要なことは、この暴力性や権力性が、周囲の社会の持つそれと、相同的であると思われる、ということだ。これは、「周囲の社会」に責任を転嫁しようというわけではなくて、「周囲の社会」が有する暴力性にぼくが従属し、同調しているということを言いたいのだ*2

この暴力性はどういうものかというと、根本的には、他人や動物を含めた他の存在を、道具としてだけ扱うような社会・制度、ということである。こうした社会・文明のあり方には、特定の歴史的な起源があるはずだ。ぼくたちは、その歴史の中に住んでいるのである。
ここに一つの(しかもとんでもなく大きく複雑な)考えるテーマがあるわけだが、これは射程としては、基本的にグローバルなものであるといえるだろう。

「否定的な感情」はどこから来るのか

ところで、ぼくが思うもうひとつのことは、親という他人を、自分を経済的に養ってくれ、庇護してくれる道具のようにだけ扱うという態度の底には、自分自身に対する否定的な感情があるのではないか、ということだ。はっきり言うと、自分の存在を否定してしまいたいという潜在的な気持ちが、親や他人に対する冷酷さに反映している。
自己に対する否定的な感情が、他人に投射されるというメカニズムの分析は、今の特に日本の社会を考える上で欠かせないものではないだろうか。
この感情がどこから来るのかということが、もう一つの考えるテーマになるだろう。これは、先ほどのテーマに比べれば、ややローカルな、近代以後とか戦後のある時代以後の日本の社会の特性に深く関わるものではないかと思う。
具体的にいうと、この「否定的な感情」について考えるとき、ぼくは東洋人である近代の日本人が同じ東洋人を植民地支配したという、屈折した歴史を考えるし、夏目漱石正岡子規といった文学者のことを思い浮かべる。もちろんこれは、先のグローバルなテーマと重なるわけだが。
また、ぼくが中高生だった70年代後半から「いじめ」や子どもの自殺が急速に社会問題化したことを思い出すし、それを遡行するとどうしても戦争にまでは行き着くだろう。

ざっとこんなことをモチーフに、これからここにあれこれと書いてみたいと思うが、もちろんどうなっていくかは分からない。
うまく続いたとしても、話がどこかで大幅に変わってしまいそうな気もする。そうかと思うと、またいつの間にか話が戻っていたり。
それでもできるだけ、その時々の自分の実感に近いところで、話を展開していきたい。

じゃあ、これはやっぱり日記なのかなあ?

*1:こうした人たちの「社会の被害者」としての側面、また、こうした人たちの存在が内包しているかもしれない、肯定的な可能性については、後で別に書いてみるつもりです

*2:この従属・同調という問題が、ぼく自身のこととしては一番真剣に考えないといけないことだろう