舞城王太郎『阿修羅ガール』

2003年度の三島由紀夫賞受賞作。

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

主人公の女子高生アイコは、たとえば次のようなことを考える少女である。

正直な物言いだね陽治。なかなか人が言わないことだけど、ホントのこと。人の親切心にも同情心にも、その人なりの限界・境界があるってこと。誰かが物凄い苦痛を感じてのた打ち回っていても、それが遠い場所の出来事だったり現実感薄い感じだったりしたら、人はちょっと手を差し伸べたり、一歩歩いたり、チラッと見ることすら億劫で、しないということ。そんなことありふれてて当然で普通のことだけど、誰もなかなか言わない。面倒臭いと同情心はいつもいろんなこところで綱引きをやってるってこと。(93ページ)

たしかにこれは普通の考えだろうが、同時にアイコは自分自身について次のようにも思っている。

つーか私の同情心は弱すぎる。好きな男の子に対しても、面倒臭いが圧勝しそうになる。そりゃやばい。やばすぎるでしょ。(95ページ)


三部構成をとっているこの小説の第一部は、このアイコの日常の意識を、軽快な独白の文体によって描き出していて秀逸だ。
アイコが生きているこの現実感の希薄さと軽さは、自分自身の生命に対する怖れに根ざしたものだと考えられる。それは当然、生きることそのものに対する回避、軽薄な死の選択という行動を生みだすものだ(「人生リセット」)。
第一部の最後のところで、突発的な展開によってアイコは生命の危機に陥ることになり、第二部はその生死の境目でのアイコの魂のさまよいを描いた、三つのある種宗教的なファンタジーによって構成されている。
第二部の最初のファンタジーの最後ではアイコが、また三つ目のファンタジーの最後では「グルグル魔人」と自称する青年が、いずれもあっけなく自分から死を選んでしまう。この自己の生命に対する軽薄さは、じつは彼女(彼)たちが予感している、むき出しの(言語化できない)生の圧倒的な力との出会いを回避しようとする態度のあらわれである。
強引にまとめて言えば、この若者たちは日常の空間においては覆い隠されている生の中心部に、全てを混沌のなかに投げ入れるような凶暴な力の存在を予感しており、その凶暴な力と直面することを回避するために、彼女(彼)たちは生きていることに対する軽薄さを選択している、ということになる。この回避のための死からどう脱却するかということが、この小説のテーマになっていると言えよう。


「森」と題された第二部の二つ目のファンタジーのなかには、次のような印象的な一節がある。

どうせ森を出ることはできない、と私は悟りました。出れたように見せられて騙されるだけで、本当に外に出ることはできないんだ、と私は知りました。
だから私はもう森の外に出ることは諦めよう。オッレを探しにいこう。私のお兄さんを、ちゃんと見つけてあげよう。(256ページ)

このファンタジーのなかで、軽薄で表層的な日常の生を取り巻く外側の世界は出口のない邪悪な森としてとらえられている。この森は、じつは若者や子どもたちが、その正体を直感して回避しようとする、人間の生そのものの隠喩ではないかと思う。
この森の中心部には子どもたちをバラバラにして殺し自分の身体の一部にしてしまう凶暴な怪物が住んでいる。この怪物との出会いの予感が、この若者や子どもたちに「回避」としての死を選ばせてきたわけだが、「森」のなかでの怪物との出会いと対決を通して、第三部では、苦痛をはらんだ生への肯定の可能性が提示されることになるのだ。
それは、じつは死(生の否定)がこの怪物に飲み込まれることを意味するのだということを、主人公が実感するからである。

私がとにかく絶対お断りなのは、あの森に帰ること。あれが現実のものだとしても、架空のものだとしても、あそこには絶対に帰りたくない。もうあんな怖い目に遭いたくない。痛いのと同じように、皮膚感覚的にあの怖さを憶えてて、嫌すぎるのだ。もう二度と体験したくない。あそこがもし死の直前に必ず通る道ならば、私は不死にならなくてはいけない。(316〜7ページ)

この生の肯定、というよりも死(タナトス)の否定の意志は、一見過酷すぎる現実からの退行のように思えるが、そうではない。いっさいの言語化が不可能なむき出しの生の姿と対決することを通して、アイコは死に飲み込まれることなく生きていく唯一可能な方法として、自分の生の姿勢をいわば内側から作り出していこうとしているのだ。

誰も皆、本当に自分が存在してるかどうかなんて判んないはずなのだ。それに皆、気づいてない。私とおんなじ体験をしてないせいだ。私はもう判ってる。おかげで何が本当で何が嘘なのかさっぱり判らなくなったけど、判んないんだってことだけは判った。(318ページ)

このアイコの認識は、生の現実をまがまがしいものととらえざるをえないアイコの世代の日常の感覚に根ざしてはいるが、そのまがまがしい生の姿とあえて対決したことによって生じたものだ。
ここでは生の肯定は、生の醜悪さや苦しみに対する寛容さ、とでも呼ぶべき形をとることになる。

で、我思う我ありってのが私のなかで壊れちゃった今、じゃどうするかっていうと、どうもしない。我ありってことが疑わしくてもいい。つーか、我なくてもいい。自分の存在が確信されなくても支障をきたさない。
 (中略)楽しい、と感じている気持ちは本当だから、それなら結局全部オーライなのだ。オールオッケー。問題なし。私は自分の存在を疑うことすら楽しんでいる。人間、楽しむということが最優先だし、そう心がけなくても、最優先してる。苦しんでる人は、その苦しみを楽しんでるんだし、頑張ってる人は、その頑張りを楽しんでる。人が今やってることが、その人の選んだ、自分にとって一番楽しいことなのだ。うんうん。私が楽しめないのは痛みと恐怖で、だから私はあの怪物を否定し、あの暗いモミの木の森をないことにし、今いる世界を楽しんでいる。(318ページ)

繰り返すが、これは現実の否認としての快楽主義ではなく、生を言語化することへの諦念の表明である。
「怪物は実在するのか?」と問うこと自体が、タナトスへの屈服を否応なく帰結してしまう。おそらく、ここでアイコが言おうとしているのは、そういうことなのだ。


醜悪さや苦しみとして意識されるほかない、むき出しの生の現実に対して寛容であること。
題名どおり、これはきわめて仏教的な内容の小説、あるいは説話なのだ。