『鎖国前夜ラプソディ』


 秀吉の一度目の朝鮮侵略である文禄の役の直前のことだが、まだ禅宗の僧侶だった藤原惺窩は、朝鮮通信使の一員として日本を訪れた許箴之という官吏と筆談で対話する。
 著者の上垣外憲一は、個人のことしか問題にせず、社会に関する思想のない禅宗の思想が、戦乱の時代であった室町・戦国の日本で指導的な理念としてもてはやされたのは自然なことだったという風に書いているが、この対話で許箴之は、道徳・倫理や社会(秩序)構築を重視する儒学朱子学の立場から、形式や規律を無視する(ある意味でアンモラルな)禅宗を信仰する者である惺窩に語りかけたのである。
 その内容は、形式から自由で「臨機応変」という禅の思想の優れた点を認めながら、儒教の古典である孟子の「浩然の気」という言葉を示唆することで(もちろん、惺窩にはその教養があった)、惺窩自身が考えを深めていくことを促す趣旨のものだったという(つまり、決して教条的ではない)。

孟子が、「浩然の気」という場合、それは本然的にある宇宙の生気、ひろびろとしてとらわれのない明るい心を指していて、老荘思想の無や玄に近いし、孟子の浩然の気は、老荘思想に非常に近いところにある。
ところが、孟子は「無心」に近い浩然の気に、「義」や「道」という、儒教的人間社会の倫理を結びつける。
本来なにものにもとらわれないはずの「浩然の気」を、それは義と道に合していないとしぼんでしまう、と孟子はいう。(p54)

おそらくこの対話が、藤原惺窩の思想が、その後の世界史的な激動のなかで、特異な価値を持つものとして形成されていく重要な契機となったということだろう。


本書では、当時の国際的な貨幣金属だった銀や、最重要な軍事資源ともいえる硫黄や硝石の産出・流通をめぐって、日本が世界の中でどのような位置を占め、また振る舞ったかを、生き生きと知ることができる。 
当時の日本は、(スペイン支配下の)南米と並ぶ銀の大産出国であり、また薩摩(なかば独立国ともいうべき存在感を示していた)の領内から産出される硫黄は、いうまでもなくなく火薬の材料だが、朝鮮侵略戦争の戦いの相手である明国への主要輸出(密輸)品でもあった。そこから得られる巨大な財力が、秀吉の侵略戦争遂行を可能にし、また桃山文化の華麗な発展を支えたのである。
いや、既にそのはるか以前、平清盛の時代に、薩摩硫黄島(鬼界が島)で産出される硫黄は、清盛による日宋貿易の主たる輸出品だったという。「鹿ケ谷の謀議」で俊寛ほか三名がその鬼界が島に流されたのも、そこが監視の行き届く場所だったからこそであり、明への留学を志した惺窩がこの島に「漂着」したとされる史実も、実は薩摩の軍事産業的貿易の一拠点であったこの島に立ち寄ることは当初から予定されていたのであろうと、著者は類推している。
マネーと軍事が歴史を動かすのは、今も昔も変わらないのだ。


先にも書いたが、本書で特に印象深いのは、明や琉球、堺、ルソン(スペイン人)、ポルトガル、東南アジアといった地域との交易で栄えた薩摩の存在感だ。
なかでも、島津家の領地だった日向の都城には「唐人町」が栄え、数千人の明の人たちが暮らしていたらしい。商業と同時に、倭寇の影響も、そこにはあった。
その明出身の人々(二世、三世も多かったという)を朝鮮侵略に動員しようとする秀吉の策謀のなかで起きたのが、「梅北一揆」と呼ばれる島津家配下の武将の反乱だった。それに対して秀吉政権は、抜群の行政能力を持つ石田三成を薩摩に送って厳しい処置をとり、島津の武将たちの領地を取り上げて、朝鮮での戦役に功績のあった者たちに知行するということにした。
二度目の侵略である慶長の役で、薩摩勢が目立って奮戦したとされるのは、この「生活のため」という理由からだったのだ。
幕末にパリで開かれた万博に、薩摩は「薩摩琉球国」として、日本国(江戸幕府)とは別個に出展したそうだが、そうした「日本とは異なる国」という意識は、この時代からずっと、鎖国の時代にも底流として流れていたものだという。それを支えたのは、軍事と結びついたものでもある交易であり、戦争や(特に琉球に対する)侵略・支配の連続でもあったわけだ。


この本のもう一人の主人公ともいえる徳川家康にしても、その視野の広さは、信長や秀吉をはるかに上回るほどの国際性を有していたことが語られる(北極海を通ってヨーロッパと北太平洋を結ぶ北極航路の開拓にさえ意欲を示していたという)が、それは、軍事に対する強い関心と不可分のものでもあった(薩摩の琉球侵攻を許可したのも家康だ)。
形式を破壊するかのような「個」や「自由」の論理が支配的であった時代のなかで、その現実と向き合いながら、どのように「平和」や「寛容」の思想が模索されたのかを、この本は垣間見させるのである。