『チェルノブイリの祈り―未来の物語』

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)


この文庫版の巻末に付された、非常に優れた「解説」の文章を、広河隆一はこう書き始めている。

本書は私にとって、大げさに聞こえるかもしれないが、人生の中で出会ったもっとも大切な書物のひとつである。しかしこの推薦の言葉を書くことで、私は困難な時間を過ごした。この本が抱えている世界は、私が書物というものに対して理解しているものをはるかに圧倒して超えてしまっているからだ。(p305)

ぼくも、この本をはじめて読みながら、冒頭から、収録されたひとつひとつの文章が持つ途方もない深さと重さに圧倒される思いがし、読み進めることが難しいほどだった。
読みながら、ぼくがただちに思い浮かべた本は、石牟礼道子の小説『苦海浄土』だった。ただ悲惨で重苦しいというだけではなく、その重さと闇のうちに生命と生活への深い愛情が満ちているような文章。
また、タイプはやや違うが、やはり人間への極限的な試練を捉えた思索的なドキュメントとして、プリモ・レーヴィの『アウシュビッツは終らない』も念頭に浮かんだ。


だが、正直に書くと、ぼくはこの本の持つその豊かさと重さに、耐えながら本を読み続けることができなかった。
途中で、書かれている内容にまともに向き合って読むことを放棄し、やや足早に、そして(普段の読書のように)概念の助けを借りながら、とりあえず最後まで読んだのである。
この本の豊かさと重さに、ぼくはなぜ耐え切れなかったのか。
それはたぶん、ここに書かれている事柄と、文章それ自体が、自分がそこにどっぷりと浸かっている日常生活の強度や密度と、あまりにも隔たっているからだ。
チェルノブイリの事故を契機として露呈し、そして証言者たちとこの卓越した作家によって、われわれの前に突きつけられることになった世界の相貌、生の次元と呼べるものは、日常の次元の空気に適応して生きている者にとっては、あまりに息苦しいのだ。
このことが、この本から知ることの出来る重要な真理のひとつである。


本のはじめの方に収められた、著者アレクシェービッチのセルフインタビュー形式の文章「見落とされた歴史について」のなかで、次のように語られている。

ここでは過去の体験はまったく役に立たない。チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えていたことがないからです。不意打ちを食らったのです。(p30〜31)

なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似たできごとも、体験も持たない。私たちの視力も聴力もそれについていけない、私たちの語彙ですら役に立たない。私たちの内なる器官すべて、それは見たり聞いたり触れたりするようにできているんです。そのどれも不可能。なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。
 感覚の新しい歴史がはじまったのです。(p31)


「自分自身の枠から」出ること、「感覚の新しい歴史」を受け容れることは難しい。
この本のなかで、証言者たちがしばしば、汚染の危険を伝える内外からの言説を「扇動」として、「パニック」を起こしかねないものとして感じ、政府・当局だけでなく、一般市民もまたそれらをうるさく思っていたと語っていることは、それを裏付けているだろう。
チェルノブイリ」は(「原発の大事故は」と言い直してもいいが)、人々に、「枠から出ること」「感覚の新しい歴史を受け容れること」を強いるがゆえに、人々から遠ざけられ、忘れたふりをして扱われるのである。
アレクシェービッチもこう言っている。

最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。(p32〜33)


では、「枠から出る」とは、具体的にはどういうことか。
まず、政治的にはこういうことが言える。
チェルノブイリの事故が起きたのは1986年であり、ソ連邦崩壊のわずか3年前である。この大事故の発生と、その被害の(政府による隠蔽などによる)拡大は、この国家と社会の衰亡と終焉という事柄と、深く結びついていた。
この本のとくに第1章では、強制疎開の対象となった村に自分の一存で帰って暮らしている(被曝者への差別もその大きな理由だ)サマショールと呼ばれる人たちの他に、連邦崩壊後に起きた各地の民族紛争の地獄のような状況を逃れて、この汚染された土地にあえて「安住」の地を求めて移り住んだ人たちが登場するのだが、ここにはもっとも如実に、国家体制の瓦解(それによる混乱)と原発事故の発生・拡大とのつながりの深さが示されていると言えるだろう。
原発事故が露呈させたものについて、この文庫版に付された訳者あとがきのなかには、著者の次のような明瞭な言葉が紹介されている。

「わたしはチェルノブイリの本を書かずにはいられませんでした。ベラルーシはほかの世界の中に浮かぶチェルノブイリの孤島です。チェルノブイリ第三次世界大戦なのです。しかし、わたしたちはそれが始まったことに気づきさえしませんでした。この戦争がどう展開し、人間や人間の本質になにが起き、国家が人間に対していかに恥知らずな振る舞いをするか、こんなことを知ったのはわたしたちが最初なのです。国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。革命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことがたいせつなのです。」(p302〜303)


国家の体制という以上に、人々に内面化されていたこの社会の集団主義的な心理については、本書の中で、非常に多くの証言を読むことが出来る。
たとえば、

わが国の人間は自分のことだけを考えることができないのです、自分の命のことだけを。ひとりでいることができない人間です。わが国の政治家は命の価値を考える頭がないが、国民もそうなんです。おわかりですか?ぼくたちは自分の命のことを考えるようにはできていない、人間がちがうんです。(p214)

でも、これもやはり一種の無知なんです、自分の身に危険を感じないということは。私たちはいつも〈われわれ〉といい〈私〉とはいわなかった。〈われわれはソビエト的ヒロイズムを示そう〉、〈われわれはソビエト人の性格を示そう〉。全世界に!でも、これは〈私〉よ!〈私〉は死にたくない、〈私〉はこわい。チェルノブイリのあと、私たちは〈私〉を語ることを学びはじめたのです、自然に。(p253)


このように、この本からは、原発の問題が、人間と自然との関わりの問題であると同時に、国家と個人との関係に深く関わるものであるという真理を、あらためて知ることができる。
要するに、原発の大事故による被害(危険)は、国家との対峙的な関係を自覚的にすること(強く意識すること)を各個人に強いるが故に、国家や集団主義的な社会との同一性に安住し続けたい(しがみつき続けたい)人たちにとっては、全力で否認したい事柄なのである。




しかし、そればかりではない。
この本に書かれた言葉が、その言葉に含まれた証言者(被害者)たち、また作家自身の精神と行動(生のあり方)が、読む者を息苦しくさせ、ときには反感や憎悪さえ引き起こしかねないのは、それらが現代の社会と文明のなかに暮らす者の生を、もっと根本的なところで光に曝し、厳しく問いかけているからだ。何ものかへの深い愛情の力によって。
語られ書かれた、これらの概念化を拒絶する言葉に託されたその力が、読む者の心をいわば内部から照らし出し、静かだが深い変化の不可避さを覚らせようとするのである。
著者のアレクシェービッチ自身は、次のように語る。

私の関心をひいたのは事故そのものじゃありません。あの夜、原発でなにが起き、だれが悪くて、どんな決定がくだされ、悪魔の穴のうえに石棺を築くために何トンの砂とコンクリートが必要だったかということじゃない。この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じていたかということです。チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です。(p29)

この人々は最初に体験したのです。私たちがうすうす気づきはじめたばかりのことを。みんなにとってはまだまだ謎であることを。(p33)


そして、証言者たちの、たとえば次のような言葉に接するとき、読む者は、「なにを感じていたか(いるか)」、なにに「気づきはじめているか」という問いかけが、まさに今の私たちの生の深部に突き刺さるものだということを実感するにちがいない。

ああ、もうじゅうぶんだ!おしまいにします!話していると、ぼくの心が「おい、お前は裏切っているんだぞ」とささやくのが聞こえるんです。なぜなら、娘を赤の他人のように描写しなくちゃなりませんから。娘の苦しみを。(p49)

アフガンから帰ったときには、これから生きるんだということがわかっていた。でも、チェルノブイリではなにもかも反対。殺されるのは帰ってからなんです。(p85)

森を葬りました。樹木を一メートル半の長さに切り、シートにくるんで放射性廃棄物埋設地に埋めたんです。夜、寝つけなかった。目を閉じると、なにか黒いものがゆらゆらしてひっくり返るんです。生きもののように。地層は生きているんです。甲虫、クモ、ミミズといっしょに。ぼくは一匹も名前を知らないが、甲虫や、クモ、アリが住んでいる。大きいのやら、小さいのやら、黄色のやら、黒いのやら。実にさまざまな色をしている。だれかの詩で読んだことがあるんです、動物は別個の世界の住人なんだと。ぼくは彼らの名前すら知らずに、何十、何百、何千となく殺した。彼らの家、彼らの神秘さを破壊し、ひたすら葬ったのです。(p103)

もし徹底的に誠実であろうとするなら・・・。チェルノブイリ。たしかに道はつづき、川は流れている、さらさらと。親しい人間が死んだとき、これとよく似た気持ちでした。太陽が出ている。ツバメが飛んでいる。雨がふりはじめた。でも、あいつは死んだんだ。おわかりになりますか?別の次元を言葉にして、当時ぼくの内面がどうであったかお伝えしたいのです。(p125)

外国という名のこの大きな店、高価な見本市からもどってきた子どもたちのところに、ぼくは授業に行かなくてはならない。ぼくは行き、この子たちがすでに傍観者になっていることがわかる。彼らは傍観しているだけで、生きていない。ぼくはこの子たちを自分のアトリエにつれていく。そこにはぼくの木彫りの作品がある。この子たちのお気に入りなんです。「ここにあるものは全部ふつうの木で作ることができるんだよ。自分たちで彫ってごらん」。目を覚ませよ!木を彫ることで、ぼくは封鎖から立ち直ることができたんです、何年もかかりましたよ・・・・。(p142)

こうした(人間には)過酷なまでの言葉によって綴られた、この恐るべき質量の本の存在自体が、「以後」の世界を生きる、私たちにとっての希望なのだ。