昨日書いたことへの補足

フェミニズムはだれのもの?』所収の他の対談について書きたいのだが、その前に、ちょっと昨日書いたことに蛇足を付け足しておきたい。

錦の御旗

昨日書いたことの大事な要点は、私が少数者や弱者と考えられる相手に対して持つネガティブな感情は、それが「感情の問題」であるからこそ、切り捨てられない重要さを含んだ「直視すべき事柄」だと言えるが、しかしそれを「直視する」という態度に「誠実さの追求」とか「心の擁護」といった価値付けが「錦の御旗」のように加えられると、大変危ないものになる、ということだった。


ここで整理しておくと、弱者である相手に対して持つ(憎悪などの)ネガティブな感情と、フェミニズムや差別撤廃運動などの「正義」の主張に対して抱く反感とは、同じものではないだろう。むしろ後者が出発点となって、それがいつの間にか前者に移行している、少なくとも差別や排外的な暴力の容認、暗黙の支持につながっている、そういう場合が多いのではないかと思う。やはり昨日書いた、「誠実さ」を重視する姿勢が、知らぬ間に社会の差別的・排外的なあり方に加担してしまう、という構図が、ここに見られると思うのである。


このネガティブな感情は、決して「自然なもの」ではなく、社会的な条件によって作り出されたものであることには、多くの人が同意するだろう。
だがそのことは、そうした感情(差別的な感情)が啓蒙によって簡単に除去できるような、私たちにとって外在的なものに過ぎないということを意味するのではない。そして、そんな風に簡単に考えて啓蒙している人など誰も居ない。この困難さは、差別撤廃を唱える人にとっては、まったく自明の事柄のはずだ。
しかし「心」や「誠実さ」を錦の御旗にして、差別撤廃運動に反対するような人は、多くの場合、差別撤廃論者がそうした困難さの認識を持っているということを認めないのである。
そして、「心」を拠り所として、差別的な社会構造の維持と、他者の排除を主張するような、倒錯した論理に陥っていく。


結論的に言えば、私のなかのネガティブな感情の掘り下げは重要なことなのだが、その行為が(「心」や「誠実さ」に関わる問題として)過剰に価値付けられるときには、それはナショナルな色を帯びた特定の倫理性や精神的価値の排他的な優位という考えに結びつき、そのことでネガティブな感情そのものの正当化を、したがって私が同化している社会の差別的な支配的価値観の是認ということをもたらすのだと、私は言いたいのである。



蒼穹の昴』から

最近、NHKで放映されている浅田次郎原作の日中合作ドラマ『蒼穹の昴』を、よく見ている。
そのなかで、こんな話があった。
田中裕子の演じる西太后は、寵愛している側近の青年が結婚すると聞いて、この夫婦に不思議な光を放つ宝石のような秘宝を贈る。青年は、その石を受け取ることが、宮廷内の権力争いのなかで自分が完全に西太后側に位置づけられることを意味してしまうのを恐れ、辞退しようとするのだが、それは絶大な権威を持つ西太后の逆鱗に触れる可能性のある行為である。
そこで青年は、こういう策に出る。結婚してから三年の間、夫婦は寝室を共にしないという形で、いわば願をかけて西太后のために祈り続ける。そして三年経った後で、この宝は、私たちのようなものにはふさわしくなく、西太后様にこそふさわしいものだ、と理由を付けてそれを返そうとするのである。
おおむね、そんな話だったと思う。
この青年の行動は、無論自分が不利な立場に置かれない為にとった政治的な思惑にもとづくものであって、西太后のための祈願というようなことは、実際にそれを行ったのだとはいえ、祈願そのものが(精神的な)「真実」であったわけではないのである。
だが西太后は、そういう青年の思惑(彼女にとっては、それは見え透いたものだった)を見抜いた上で、『お前の真意は私を遠ざけようとすることにあるが(つまり私を騙そうとしたのだが)、その行為には誠意がある』と言って、快くその秘宝の返却を認めるのである。


ここでは、青年が西太后を遠ざけて保身を図ろうとしたことはもとより、彼女を騙そうとしたことや、その祈願が「真実」の心によるものだったかどうかといった、内面的な基準よりも、三年間夫婦の交わりを経って祈り続けたという、行為そのものに込められた努力に、高い価値(誠意)が見出されているわけである。
お前は私を騙そうとしたが、その行動そのものに真実があった。西太后は、そう言っているのだ。
こうした、内面的な誠実さよりも、形式に示された努力の跡こそを、人の思いを表現しているものとして高く評価するという態度(これは、外交的な態度とも呼べるものではないか?)は、私たちがいつ頃からか、理解しがたくなってしまったものではないだろうか?


嘘(非真実)というのは、事実とは異なることを言って誰かの心を傷つけることだと、ルソーは言っている。
この場合、青年の行為は西太后の心を傷つけないために為されたものだから、それは虚偽ではあっても嘘ではなかった(真実だった)のである。


このドラマでは、人間の多面性のようなものが、非常によく描かれてると思う。
たとえば西太后は、残忍で愚かな面を持った人であることが、しばしば描かれるのだが、その同じ人が、上に書いたような賢明で含蓄に富んだ言葉や、深い思いやりのある行動を示したり、またたいへんかわいらしい面を見せたりする。
人間が一面的に描かれるということは、ほとんどない。
こうしたことは、浅田氏の原作によるものなのか、中国側の演出や脚本の影響が強いのか、私にはよく分からないのだが、ともかくそこに、最近の日本の社会では忘れられがちな狭小でない人間の捉え方が見出せるようで、私には魅力的なのだ。


ともかく、上の秘宝をめぐる西太后の言葉をはじめとして、私がこのドラマから感じとることは、「誠実さの追求」というような内面的価値に第一義の重要さを見出す態度が、まったく特殊な価値観にすぎないことであり、それも重要な価値ではあるが、それだけを排他的に高い価値であると考えることは、ナショナルな力学に自分を同化させることしか意味しないだろう、ということである。
するとそうした態度は、ナショナルな力学がナショナルな圏内において振るう排除的な暴力に、まったく無自覚に(自己の自然な倫理観の名において)自分を加担させる結果を招かざるを得ないだろう。


さらに付け加えて

さらに、もう少し書いておく。
差別撤廃や啓蒙的な主張をしている人が、実生活においては、言行不一致のような面があるということは、日本の社会においても、常に批判の対象となる。
そうした批判は、こうした啓蒙や運動が「内実を伴うもの」へと深化していくことを目指すなら、まったく正当なことである。
だが、しばしば見られるのは、「言行不一致があるなら(内実を伴わぬところがあれば)、そうした主張や行動そのものが無価値だ」という、誠実主義とでも呼べそうな価値観の支配である。
これはどう考えても、おかしいであろう。
「正しい言動・行動をしているのに、正しくない面を持っている人」と、「正しくない言動・行動をしている(あるいは沈黙・無行動である)人」とでは、前者の方が悪いと言わんばかりの物言いが、この社会には蔓延してるのだ。
これは、言行一致の「誠実さ」ということを最上位に置くナショナルな価値観を自明のもののように持ち出すことで、変革や啓蒙や解放のための行動の総体を無力化してしまう意図をはらんだ態度ではないだろうか。


こうした、まったく不合理で、虚無主義的としか言い様のない言い分がまかり通っていることは、この社会の根底に流れている差別主義的な力に、私たちがいかに深く汚染されているかということを示しているだろう。
差別への反対やあらゆる啓蒙の価値を貶めたいという、集団的な権力の欲望のようなものが、私たちの内外を日常的に覆い、浸透しているのである。


私などは、立派なことを言ってる人に、言行不一致の面があれば、むしろそれが人間的で好ましいとさえ感じることがある。
もちろん、そう言って済まされない、ひどい権力的なケースがあるだろうことは分かるのだが、それでも言行一致の誠実さをイデオロギーのように唱えることでナショナルな支配的な価値観への同化を糊塗する態度よりは、そんないい加減な自分の倫理観の方が、まだはるかにマシな悪であろうとさえ思っている。


まあ、これ以上書くとボロが出そうなので、今日はここまで。