プロの仕事とブログの倫理

このところネタにしている永江朗の『<不良>のための文章術』という本は、プロのライターを目指す人たちのために書かれた本です。「プロ」とは、ぼくの言葉でいえば「賃労働の現場にいる人たち」ということです。これは、ぼくのようなブログの書き手とは、書くときの立場としてはまったく違っているといえます(もちろん当人の実生活での職業が何であるかは、まったく関係ありませんよね)。
ちょうど、その本のなかに、「書評」についてのかんがえがのべられているところがあるので、その一節を引用してみます。
著者は書評(本の紹介文)について、『当該の本をきちんと読むのは最低限のルールです』と明言しています(もっともな主張で、ぼくも同感です)が、その理由として次のようなことを書いています。

まず、当該の本を読みます。世の中には「読まずに書く」という人もいます。「まえがきあとがきを読んで、あとは面白そうなところをチョイチョイとつまみ食いすれば、千字や二千字ぐらいの紹介文なら書けるぜ」とうそぶく人もたしかにいます。しかし、初心者はそれをやってはいけません。なぜなら、リスクが大きすぎるし、のちのためにもなりません。
 リスクというのは、たとえば論争です。ものを書いて発表すると、異論や反論や批判が出てくることがあります。(中略)
「読まずに書く」なんていうことをやっていると、この論争に耐えられません。「永江は誤読している」と指摘されても、肝心の部分を読まずに書いたのであれば、反論のしようもない。でもまさか「ごめんなさい、読まないで書きました」ともいえない。当該の本をきちんと読むのは最低限のルールです。(p116〜117)

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本の紹介について

きのうのコメント欄で、なぜ読みおわっていない本の紹介をしたりするのか、という趣旨のご意見をいただきました。もっともな疑問であり、またご批判であろうと思います。
これについてのぼくの見解は、やはりコメント欄に書いたのですが、もう少し詳しく説明しておきます。

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ブログは商品たりうるか

早速だが訂正しなくてはいけないことがある。
きのう、永江朗の『<不良>のための文章術』について、「ブログの文章を書くのには参考にならない」と暴言をはいたが、大間違いだった。この本は四つの章からなっていて、最後の章でコラムとエッセイの書きかたを論じている。今日この章を読んだところ、ブログを書くうえで滅茶苦茶参考になることばかりが書いてあった。どう書いたらいいのか悩んでいる方は、ぜひこの本を読むことをおすすめしたい。
最後まで読んでから紹介しないと、やっぱりだめだなあ。まだ読みおわってないけど。


ところで、それに関連してきのう書きかけたことを展開してみる。
永江の書いている「書き方のコツ」に学びたいところだが、まだあんまり頭にはいってないので、あいかわらず読みづらいのはご容赦ねがいたい。


プロのライターが書く文章は「実」であり、ブログの文章は「虚」ではないかと書いたとき、商品化された文章とそうでない文章、という意味で両者を区別したのである。自分の趣味や主観をそぎおとし、読者(消費者)のニーズにあわせて商品としてつくりあげられるプロの文章に要求されるノウハウは、商品化を前提にしていないブログの文章を書くことにはそのまま応用できないのでは、という意味だった。
正直、商品化された文章に対置できるほどの自立した地位を、ブログの文章というものはもっていないのではないか、もっているとかんがえるのは幻想じゃないか、という気持ちがぼくにはあった。そして、そういう幻想をもつことに危うさを感じたのである。だから、あえて「虚」というわかりにくい語をつかった。
もっと踏みこんでいうと、ブログの文章で、他者同士の対話や伝達をきずきあげるのは不可能ではないか、と思ったのだ。商品化された文章がもちうるような、他者(読者)との緊張した現実的な関係をブログにもとめることはできない。ブログに可能なのは、そういう現実的なコミュニケーションではなく、別のものではないのか。では、それをどう定義すればいいか。

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ブログの文に関する走り書き

先日買った、永江朗の『<不良>のための文章術』。読みかけだけど、今感じてることをひとつ。
これは冒頭に書かれているように、プロのライターを目指す人のための本だ。(もちろん、それ以外の人が読んでも十分面白いが)
それで、書かれていることはほんとによく分かるんだけど、ブログの文章を書くには参考にならないところもある。
というのは、プロのライターの文章が「実」だとすると、ブログの文章というのは、所詮「虚」だと思うから。「虚」が「実」の真似事をしても駄目である。
いや、実は極力真似たいのだが、それだとうまく行かないだろう。
しかし、そこに開き直っていいのか?


「虚」であるということの意味の一つは、金儲けにつながらないということもあるが、同時に元手がかかってないという意味もある。このブログは無料で開けるわけだし。これは、色んな意味ですごく大きいことだ。
ともかく、自分のやっていることが「虚」であることは忘れないようにしたいと思う。
それは、世の中にはその道の、いやそれぞれの世界や人生の「実」の人、現場の人というのが現実にいるから、ということもあるが、自分を見失わないためでもある。


またいずれ、詳しく。

「断片的な声」についての補足

一昨日書いたことへの補足。
かなり荒っぽいところのある話だったので、特に「マジョリティ」と「マイノリティ」といった言葉に関連して、もう少し整理してみたい。

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ネットとマジョリティの「声」

前回、「おしゃべりの場」としてのブログの可能性ということを書いたが、これを「趣味」的な言説の共同体という日本のブログの特性から分離することは難しい。
むしろ、両者は分かちがたく結びついているというのが、正確な現状の表現だろう。これは、「ブログ」という特別なジャンルに目を向けなくても、掲示板にせよ、ホームページにせよ、ウェブ上の言説のあり方全部に関して言えることであろう。
それらは、現実の現われとしては、発言の場を与えられたマジョリティの、無責任な言葉の氾濫の空間という性格を有していることは否定しがたい。この空間が享受している自由は、マイノリティの人格や権利の侵害の危険を、つねにはらんでいる。
この事態は、必ずしも日本だけのことではないが、日本の場合には、排外的であったり、趣味的(非政治的)という、ナショナルな特徴がそこに示されているということだと思う。


インターネットの普及に伴って、社会全体に新たな「平民主義的」な言説の可能性が切り開かれたという事態は、もちろん世界中のどこでも起きていることだろうが、韓国や中国など東アジア諸国では、特にその影響は顕著であると思う。
日本を含めて、この地域全体で最近勃興しつつあるナショナリズムの機運は、たしかに現在と、それにつながる過去の現実にその主たる根を持っているとはいえ、この側面を見なければ全体像を見誤るはずだ。今日のナショナリズムは、過去のそれと同じものではない。むしろ、新たな環境のなかで生じたものと考えるべきである。
とりわけ日本の場合には、先に述べたように、このナショナリズムは「趣味性」、「非政治性」という特殊な外観を呈しているので、自覚されにくいが、どの国でも起きている事態は、この意味では共通しているのではないかと思う。

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ブログ・ナショナリズム・子規

昨日書いた、ブログ公開三ヶ月にあたって思うこと、の続編。
ブログというジャンルについて、今思っていること。
やや漠然とした話になるが、自分もやっているブログ、特に「日本のブログ」というローカルな特殊性を持つ表現様式に関して、どう考えるか。
以下、まとまらないままに少し書いておきたい。

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