『橋川文三 柳田国男論集成』

 

柳田国男論集成

柳田国男論集成

  • 作者:橋川 文三
  • 発売日: 2002/09/01
  • メディア: ハードカバー
 

 

、全部読んだわけではないが、(図書館での)貸し出しの期限をだいぶ過ぎたので他の本と一緒に返却。

読み応えあった。

 

戦後の柳田ブームのきっかけになったと言われる「柳田国男 ―その人間と思想」(1964年)は、そう長い文章ではないが、さすがの内容である。柳田の文章も数多く引用されているが、特に1910年(明治43年)に出版された名高い講演録「時代ト農政」の最後のところの引用が印象深い。

 

「国民の二分の一プラス一人の説は即ち多数説でありますけれども、我々は他の二分の一マイナス一人の利益を顧みぬと云うわけには行かぬのみならず、仮に万人が万人ながら同一希望をもちましても、国家の生命は永遠でありますからは、予め未だ生まれて来ぬ数千億万人の利益をも考えねばなりませぬ。況んや我々は既に土に帰したる数千億万人の同胞を持って居りまして、其精霊も亦国運発展の事業の上に無限の利害の感を抱いているのであります。」

 

ここに開陳されているのは、帝国の官僚としての柳田の考え方だといえるが、それ以上に、保守主義柳田国男の考え方の核心部分であり、それは戦前・戦後を通じて柳田民俗学の根底を流れるものでもあっただろう。

それは国家観としては、国家有機体説に属するものである。

国家ということを外して、社会や共同体の倫理ということなら傾聴すべきものだと(とりあえずは)思うが、それが国家に関する思想となれば、橋川が(別の論考で)的確に指摘するように、そこには支配の装置としての、あるいは権力機構としての「国家」を見据える視点が、決定的に欠如することになる原因が存しているという他ない。

やはり橋川の言うように、それこそが柳田の学問の決定的な弱点だろう。

そしてもちろん、これは柳田一人の問題ではない。

同じ1964年に書かれた「魯迅柳田国男」という短いエッセイのなかで、橋川は、

 

『柳田があれほど深く広い歴史の智識をもちながら、ついに魯迅の沈痛、強烈な歴史観をもちえなかったことが、かえって私には謎である。柳田が浅いというふうに私はいいたくない。かえって柳田のその浅さの含む深い意味に謎を感ずるのである。そしてそれを日本の謎であるといってもよいと思う。』

 

と書いているが、その「謎」を解く鍵は、やはりここ、つまり国家(及び様々な国家に類似する共同体)と自己との撞着的な関係にあるのだろう。

 

 

ここからは、戯言。

この本を読む前、すが秀実・木藤亮太著『アナキスト民俗学』という本を読んだ。これもたいへん面白い本だったが、(同書のなかでも言及されている)橋川の論考を読むと、やはり橋川の鋭さが際立つのだった。

また本書に収められた、橋川の保守主義論を読んで、やはり先日読んだブルーノ・ラトゥール著『地球に降り立つ』という本を思い出し、ラトゥールの主張は、結局、保守主義だったのかと思い至った。

ラトゥールに関して言えば、人間(近代)がこれだけ地球の環境を破壊しておいて、それに怒った地球(非人間)が激怒して「反撃」に出たからといって、「では、これからは相互(共生)的に」という(クロポトキン的でもある)発想は、あまりにも(非人間に対して)虫が良すぎると思うのだが、橋川ならどう言うだろうか?

さて、『橋川文三 柳田国男論集成』に戻っていえば、終りに収められている、藤田省三と神島二郎との対談は、いずれもたいへん面白いものである。お勧め。

『天然知能』(郡司ぺギオ幸夫)

 

 

 

天然知能 (講談社選書メチエ)

天然知能 (講談社選書メチエ)

 

 

 

この本は、僕にとってはすごく難しい内容だったのだが、最後の方の部分で、考えさせられるところがあった。それをとくに書いておきたい。

まず、表題の「天然知能」ということだが、冒頭で簡潔に説明されている。

 

『本書で論じられるものは、天然知能という新しい概念です。天然知能は、人工知能の対義語として自然に根付いている知性、を意味するものではありません。決して見ることも、聞くこともできず、全く予想できないにもかかわらず、その存在を感じ、出現したら受け止めねばならない、徹底した外部。そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。(p9)』

 

 

この概念が、どのような世の中の趨勢に対峙して提示されてるか、次の文章を読めば分かりやすいだろう。

 

『本書では、自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続ける知性を、「人工知能」と呼びますが、それもまた、自分の「外部」を観察し、絶えず「外部」世界とやりあっている知性のように、一見、見えてしまいます。

 しかし、人工知能の「外部」は、自分にとって都合のいいものが集められた外部です。自分にとって意味のないもの、邪魔なものは、目にも入らない。知覚しないのです。いずれ自分の役に立ちそうなものだけが知覚され、自分の世界に組み入れられるか否か詮議される。そのような、括弧つきの「外部」を知っているだけで、冒頭述べた外部を理解した気になっている人たちの、なんと多いことか。(p10)』

 

 

これ以後、「天然知能」に関して色々と語られていく。

たとえば次のようなこと。

 

 

『私たち天然知能は、向う側感を持って世界を認識しているのです。視界の外に、見えぬものの存在を確信できる。私たちの知覚や認知は、むしろこのように、単独の感覚の外部を伴って成立するものではないでしょうか。(p99)』

 

 

知覚や認知以前のところで、見えないものの存在を感じ確信している(そして、その到来に備えている)ような、生の構え、それが天然知能というあり方だというわけだ。

ところで、それは私たちの日常からかけ離れた特別なものではないこと、むしろ日常に深く秘められた態度とも言えるのだということについて、本書の終りの方で著者は次のように語るのである。

ここが、僕が注目した箇所だ。

 

 

今の科学では、人間の行為は機械論的に決定されたもので、自由意志の存在する余地など

無いということになってきている。だが、日常生活においては、どんな人でも(決定論者の科学者であっても)、自分の意志によって物事を決めているかのように思ってるのが普通であろう。なぜ、こんな矛盾した意識が可能になるのか?(著者は、こういう論じ方はしてない。ここまでは、僕なりの勝手な理解である。)

著者は、最新の哲学の知見から、自由意志と決定論は二者択一(ジレンマ)になっているのではなく、(量子力学でよく用いられる)局所性というもう一つの概念を加えた「トリレンマ」になっており、この自由意志・決定論・局所性の三つのうち、一つが欠けた場合には、残りの二つは両立するのだという考え方を参照する。

つまり、局所性が放棄された場合には、自由意志と決定論は両立するのであり、われわれの日常的な意識のあり方は、それを体現したものだというわけだ。

では、局所性とは何のことか。著者の説明を見てみよう。

 

『局所性とは、空間的に隔てられた二つの場所で、一方が他方の情報を、情報を持つものに何ら影響を与えることなく、知ることができることを意味します。このことは、空間的に隔てられた場所の、知ること(観測)からの状態の独立性を意味するものです。(p184)』

 

 

『この局所性の定義は、空間全体を見渡して場所ごとの情報を知る、超越的存在を意味するのです。逆に、局所性が成り立たないとき、知ることの範囲は限定的となります。しかしその知ることの外部に一切関わらないというのではなく、知ろうとして影響を与えてしまう。局所性の不在は、このように見なすことを意味します。(p185)』

 

 

ここは分かりにくいのだが、「空間全体を見渡して場所ごとの情報を知る」というのは、近代科学(量子力学以前)の客観的な知のことを言ってるのだと思う。それに対して、量子力学では非局所性ということ、つまり観測者が対象から分離できず、影響を与える(もつれている)みたいなことが重視される(この辺も、僕の勝手な解釈である)。

著者は、この非局所性(局所性の不在)を、自己と外部との境界をはっきりさせず、曖昧なままにしておくことと捉え、日常的な意識に特徴的な構造だと考えるわけである。

この構造は、(「文明」から遠いと見なされるような)「自然に密着した文化」においては、より明瞭に見いだされる意識のあり方だとされる。この本で例として出てくるのは、アフリカの村の呪術を信じる酋長の行為だ。

 

『遠く離れた局所、それは、うかがい知れない外部や他者を意味するはずです。しかし、自然に密着した文化において、他者は互いに影響を与える形で、半ば、分離できない。「わたし」と他者は区別されるものの、完全に分離することが不可能なのです。(p194)』

 

 

だがそれは、もっと一般的に、人々の日常的な意識の或る部分を構成している要素でもあるのだと、著者は言う。

ここからの展開は、かなり衝撃的である。

著者は、「局所性の不在」によってもたらされる、この意識のあり方こそ、事物としてこの世界に到来せしめられ存在する自己が、能動的な「自分」であるかのように思いなされる転換の原因だと言うのである。

 

『(前略)局所性の不在の意味は、この、「わたし」と他者の、区別された上での未分化性にあるのです。

 自分は能動的な意思決定者として振る舞っているが、他者によって受動的に動かされているだけかもしれない、しかしそれが翻って、「わたし」の能動性の起源かもしれないのです。(p196)』

 

 

『わたしを動かすものが「ノーバディ」なのですから、わたし自身を動かす身体操作感を、「わたし」が持つことができるというわけです。徹底して受動的な「わたし」が、ノーバディの能動性を略奪する。それこそが、「わたし」の能動性だというわけです。

 

 私は、受動的な「わたし」が能動性を発揮できる仕掛けは、これ以外にないのではないかと思います。物質として個物化し、「おのずから」生を享けた「わたし」が、主体的に、能動的に、「みずから」世界に向けて働きかけるようになれる。「おのずから」から「みずから」への転換とも言うべき変革は、内と外の境界が「もつれ」ている以外に在りえない。

 タイプⅢの意識においてのみ、「わたし」の能動性が可能となり、身体操作感が可能となる。無意識を含むわたしの身体とその外部の境界も「もつれ」たものですから、身体操作感と同じ理由で、世界から受動的に作られ、誰のものでもないわたしの身体が、「わたし」の身体となるのです。従って、他者を含む外部に対して「もつれ」境界を持つタイプⅢの意識は、「わたし」の身体であるという感覚、身体所有感を持ち得るのです。果たして、所有身体は、「この身体」となるのです。(p217~218)』

 

 

上の文中で「タイプⅢの意識」というのは、非局所性を特徴とする、われわれの日常的な意識の性質のことだ。

著者は、先述の自由意志・決定論・局所性のどれが不在であるかによって、意識のあり方を三つのタイプに分けて分析してるのだが、自由意志が欠けているタイプⅠと、決定論が欠けているタイプⅡとは、80年代の流行語を使えば、それぞれ「パラノ」「スキゾ」に当てはまるのではないかと思う。

それに対して、局所性が欠けているタイプⅢは、日常の意識、いわば「常民」の意識構造を示すものと言えるのではないか。

そして、それが「自己」を形成する際の仕掛けを、著者が「略奪」という言葉で表現したことが、僕にはとくに示唆的だった。

著者は、次のようにも言っている。

 

『タイプⅢは、平凡な我々に最も親和的な意識構造と考えられます。決定論は破綻しておらず、常識的な原因と結果の一致、問題と解決の一致によって、日常的理解をやり過ごします。しかし局所性の不在によって、外部を予期しています。知覚していなくとも、外部の存在を感じてはいるのです。

 純粋なタイプⅢに留まる限り、外部は召喚されず、折角外部に対する感性はあっても、それが創造力として発揮されることはないでしょう。そして多くの場合、平凡な我々は「外部」のような厄介なものを、できるだけ敬遠しようとさえ思っているのです。(p224)』

 

 

著者は、タイプⅢ、つまり日常的な意識の性質は、「天然知能」にとって特権的なものではなく、「天然知能」は三つの意識のタイプの「中間形態」であるとも言っている。

だが、日常的な自己が、著者が言うように「略奪」によって形成されるものだとすれば、われわれが(たとえ「天然知能」としてであれ)、その「外部」を隠蔽し敬遠しようとすること、さらには排除へと向かうことは、かなり本質的な振る舞いだと言えるのではないだろうか?

『知覚していなくとも、外部の存在を感じてはいる』という不安定な状態に留まり続けることは、非常な難事だろう。

それが可能になるのは、この「略奪」の自覚・記憶を手放さないことによってだけではないだろうか。それは、自分が略奪し、抹殺した(こう過去形では言えないが)相手、つまり「他者」の感触を、決して忘れないで生きることだともいえよう。

逆に言えば、われわれがいつも「他者」を攻撃したり抑圧しようとするのは、この(自己にとって)根底的な「略奪」の事実に向き合うことを怖れるからに違いない。本当は他者によって生かされている(また、その事実を隠蔽し、「略奪」している)からこそ、われわれは「他者」を否定(抹殺)しようとするのである。

また、その排除や抹殺の一つの形態として、感じられるだけで顕在化することはないはずの「外部」を、心地よい「他者」として消費するということ、それもまた、われわれ「常民」の文化の暴力的な在り様の一部ではないのか。

この本を読みながら、僕が思いをめぐらせたのは、そんなことである。

 

 

吉川幸次郎『杜甫私記』

この本は1980年に出たものだが、内容は、1950年著者の吉川幸次郎が40歳の時に刊行された「杜甫私記」と、その約15年後に発表された続編「続 杜甫私記」とを併せたもの。

以下の引用は、いずれも「杜甫私記」の方からとっている。

杜甫という人は、50代の後半に死んだようだが、ずっと官吏の職にありつけず、各地を放浪したりした。結婚して子どもをもうけたのは、40歳を過ぎた頃だったろうと言われている。それでもまだ官吏になることは出来なかったのだが、44歳の時、ようやく下級官吏の仕事にありつくことが出来た。時あたかも、安禄山の反乱が起き、栄華と退廃を極めていた玄宗皇帝の治世が未曽有の大動乱へと突入していく、その同じ年のことである。

そんな時に、やっと職に就くことの出来た杜甫は、おそらくは生活上の事情から親戚のところ(多分)に預けていた妻子に会うため、奉先県という所へ小旅行をする。その時に作られたのが、有名な長詩「京より奉先県に赴くときの詠懐五百字」である。

その詩の最後の方で、杜甫が妻子の所にたどりついてみると、五人居た子どもの一人が飢えによる栄養失調のために亡くなっていたという。

貧困のために幼いわが子を死なせる。カール・マルクスと同じ経験を杜甫もしたのだ。

杜甫は、その悲しみと感慨を切々と吐露するが、そこでこの詩を終えるのではなかった。

若き吉川幸次郎による訳と注釈を読んでみよう。

 

 

『しかし忠厚な詩人は、わが身の上の悲しみを、わが身の上にのみ留めることはなかった。わが身の上の苦しみによって、ひろくあめの下の不幸な人たちの苦しみを、おしはかる。

 

 

生常免租税  生きては常に租税を免れ

 

名不隷征伐  名は征伐のうちに隷(い)らざるに

 

撫跡猶酸辛  跡(み)のうえを撫(かえ)りみては猶お酸辛(さんしん)をいだく

 

平人固騒屑  平(つね)の人は固(まこと)に騒屑(しどろ)なるべし

 

默思失業徒  黙して失業の徒を思い

 

因念遠戍卒  因りて遠き戍(いくさ)の卒(おのこ)を念えば

 

憂端齊終南  憂わしき端(ふし)は終南のやまにも斉(なら)び

 

澒洞不可掇  澒洞(こうどう)として掇(おさ)む可からず

 

 

おのれは士族のはしくれであるだけに、納税の義務もなければ、兵役の義務もない。それすらこうした悲しみを抱くとすれば、一般人の悩みはいかばかりであろうか。

かく家国の将来に対する痛烈な憂慮をもって、五百字の長詩はむすばれている。

 

吉川幸次郎杜甫私記』 1980年 筑摩叢書 p196~197)』

 

 

繰り返すが、この吉川の文章が書かれたのは1950年だ。

そこに、当時の日本の世相と筆者の感慨が重ねられていることは想像にかたくない。特に、「家国の将来」への憂慮、というような表現がそれをうかがわせる。

僕は、そこにはあまり共感しないが、ひとりの人としての杜甫の切実な感情が、詩を作ることのなかでおのずから見出していった流れの先に、「他者」である民衆の痛苦が、海のように見いだされたのではないかと思う(本当の普遍性とはそういうものだろう)。

「失業」の意味は、もちろん近現代と同じはずはないが、それが底辺の人々の苦境を示す語であることに違いはないだろう。

この長い詩は、杜甫自身にとっても、また中国の文学史のうえでも、画期をなすものであったという意味のことを、吉川は述べている。

 

 

もう一つ引いておきたい。

もう少し若い時期に書いたと思われる、「韋左丞丈に贈り奉る二十二韻」という詩の冒頭部分についてだ。韋左丞丈というのは、杜甫の親戚にあたる、位の高い官僚だったようだ。

その詩は、こう始められている。

 

 

『紈袴不餓死  紈(しろがね)の袴(はかま)はきたるものは餓えて死なず

 

 儒冠多誤身  儒の冠は多(しばしば)身の誤(さまた)げなり

 

 

 紈袴(がんこ)とは貴族の子弟を、その服装によって呼ぶ言葉である。そうした特権階級のもつ特権を、「餓死せず」でいい現しているのは、思い切ったいい方であるとせねばならぬ。詩の重量は、第一句に於いて、既に十全である。これに反し、儒の冠をかぶって先王の道を説くものは、常にうだつがあがらない。(同上 p82)』

 

 

貧困ではあっても、杜甫は官僚を目指すことの出来る階級に属する人間だった。

だから、彼にとっては民衆は、そもそも「対象」にすぎない存在だっただろう。それが真に「他者」として見いだされるには、上に触れたような体験と、詩作の営為が必要だったのだと思われる。

だが、詩作を拠り所とした彼の生きる姿勢は、常に民衆のそばにあるものだったとも言えると思う。

「餓えて死なず」という表現の激しさは、やがて来る、彼自身と家族の痛苦を予見しているかのようである。

 

 

 

ジェイムソン『21世紀に、資本論をいかに読むべきか?』

前回に書いた「オリガーキー」という言葉だが、ググってみたら寡頭制のことだと書いてあった。少数の人間が支配する政体のことで、多数支配を対義語とする、とあった。まあ、今の日本の実態にほぼあてはまりそうである(今だけか?)。

さて、この本も図書館が閉館になる寸前に駆け込みで借りたもの。著者のフレデリック・ジェイムソンだが、日本のポストモダンブームが全盛だった80年代ごろにはよく聞いた名で、僕も『言語の牢獄』という本を読んだことがあるが、なんだかよく分からなかった。

今回、この本を読んでみて、これほど直球の左翼の思想家だったのかと、驚いた。日本のポストモダンブームを代表していたような論者たちの現状と比べると、さすが米国の左翼知識人は、筋金が入っていると思う。

さて、書名の通り、「いま資本論を読み直す」という、特にリーマンショック後、急増した趣旨の本なのだが、ジェイムソンの『資本論』読解は、一見意表を突くものである。それは、「失業」という概念の重要性に中心を置くということだ。

 

 

『このマルクスの「法則」、すなわち「資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである」という法則は、戦後の一九五〇年代、六〇年代の裕福な時代には、おおいにあざけりの対象となった。今日では、それはもはや冗談の種ではなくなっている。グローバリゼーションをマルクスが予言したことと並んで、この分析こそ『資本論』の今日的で世界的な規模におけるアクチュアリティーを更新するものだと言える。また別の意味では、この分析は「包摂」の一局面を指し示しているとも言える。経済外的なもの、社会的なものは、もはや資本の外側には存在せず、それらに吸収されてしまった。(中略)したがって、失業―あるいは極貧、貧民―の状態にあることはいわば、資本によって雇用されて失業の状態にあるということになる。失業者はまさしく、機能していないことによって、経済的な機能を果たしているのである(たとえ彼らがその働きに対して報酬を得ていなくとも)。(p116)』

 

 

たとえば熊野純彦のように、金融資本の重要性に着目したことに『資本論』の現代的読み直しの鍵を見ようとする立場もあると思うが、ジェイムソンはそうではなく、『資本論』がやはり産業資本の構造を論じた本であることを強調する。

なおかつ、これも広く見られる「本源的蓄積」や「植民地主義」の問題に重きを置くような『資本論』の読解にも、ジェイムソンは異を唱えるのである。

 

 

『われわれは引き返して、(引用者注: 植民地化や原始的蓄積とは)別の道を辿らなくてはならない。それは組み合わせのもう半分、つまり労働人口の生産の道である。この道を辿ることを正当化する術は、そもそも資本主義を作り上げたのは労働者であるという事実を思い出すことである。(p133)』

 

 

ジェイムソンが着目するのは、生存と再生産の問題とも呼べる次元である。

そこから、マルクス自身の著作としては未完に終わった『資本論』全体の構想を想像し直すという雄大な観点が出てくる。

 

 

『ここまできてようやく銘記されるべきは、再生産の問題こそが、時間のパラドクスを解く鍵なのであり、『資本論』がこの再生産の問題全体に着手するときは、『資本論』の全体計画が開示されるときでもある、ということである。すなわちマルクス共時的な「表象」が仮面を外され、見捨てられ、第二巻のめまいのするような流通のリズム、第三巻の読者をさらに惑わせるような多資本間の共時性のイメージを投射しつつ、資本システムの巨大な時間性がものものしく姿を現わすのである。(p176)』

 

 

これは、ジェイムソンらしいと言えると思うが、彼は『資本論』という書物では、「労働」が描かれてないということに注目する。マルクスが、この書物での冷徹な資本主義分析を通して迫ろうとしたもの、それは「労働」の表象不可能性であり、また労働者とその家族が置かれた生存の現実、一言で言えば「貧困」の表象不可能性であると、ジェイムソンは言う。

この、資本主義という動態の核心をなす描き得ない(表象不可能な)もの、言い換えれば、表象不可能な現実の核心、それこそが、マルクスが『資本論』の弁証法的定式によって暴き出した「失業」というものだ、ということになる。

そして、この「失業」という生存の現実が、資本主義という動態の行末の鍵を握っているという事実は、マルクスが予言した資本のグローバル化(暴力的拡大の全地球的展開)が現実のものとなった現在においてこそ、その重みを最も増している、と言うのである。

 

 

弁証法的な定式の衝撃は、資本主義的生産様式が、社会民主主義のような施策によっては任意に停止することができないかたちで拡大を続け、生産を続けるものであること、新しい形の蓄積と失業者予備軍の拡大とが破滅的に一体となっていることを強調したことにあった。そして現在、その事態は、地球規模で進行している。利潤動機は、いまや「経営合理化」のイデオロギーのもとで拡大増幅されている。銀行や投資家は、「効率」の名のもとにより多くの失業を生み出すことのできる企業を評価する。こうした展開は異常なことではなく、歴史の流れから言って論理的に妥当であり、資本主義そのものの拡張に伴う性質のものなのである。マルクスの「絶対的な一般的な法則」はこの動態性を指摘しようとしていたのであり、たんに一国の企業文化のような、余計な、もしくは避けられるような戦略としてそれを嘆くことに留まっていたのではない。(p217)』

 

 

そして、結末部では、次のように言う。

 

 

『本書で概略してきた『資本論』の動態性によってこそ、われわれはグローバリゼーションをマルクス主義の立場から分析することができるわけだが、この分析が可能にするのは、こうした多数の悲惨と強制的な怠惰の状況を喜んで記録することであり、軍閥と慈善団体の侵略にひとしく無力に餌食となってしまう人口層を、また、活動もなく生産もない、そこでは純粋に生物学的な存在の時間性が解釈されうるような、あらゆる形而上学的な意味から言ってありのままの生活を、喜んで記録することである。 

 私の信じるところでは、こうしたすべてのことを、さまざまな悲劇的な情熱ではなく、グローバルな失業の観点から考えることこそが、いま一度、地球規模での変容をもたらす新しいタイプの政治学を発明することにつながるのである。(p253~254)』

 

 

 

シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』

新型コロナで緊急事態宣言が出された時、図書館が閉館に入るというので、急遽近傍の図書館に行って何冊か借りたうちの一冊。そろそろ返すことになりそうなので、その前にここにメモをとっておこう。

この本は、2008年のリーマンショックをうけて書かれた幾つかの論考からなっている。時系列的には、序文の「資本主義―その死と来世」が最後に書かれてると思うのだが、ここに資本主義の未来(死と来世)についての著者の考えが集約して述べられている。なので、ここを中心に引用する。

資本主義の死と言っても、シュトレークが描くのは、資本主義の本性によって「社会」が崩壊した後の、暗澹たる未来像である。だから正確には、「資本主義社会(民主制資本主義)の死」と呼ぶべきかと思う。

 

 

『現在進行中の最終的危機を経て資本主義に代わるのは、社会主義やその他の明確な社会秩序ではなく、長い空白期間であろう。(中略)空白期間はマクロレベルにおけるシステム統合の破綻を示している。そのマクロレベルの破綻は、ミクロレベルにいる個人を支える制度的基盤や集団的支援の破壊をもたらし、社会生活から秩序を奪い去る。安全と安定は最小限になり、諸個人はそれぞれ勝手に社会を構成するようになる。(p24)』

 

 

『つまり資本主義の社会秩序は、別の秩序ではなく無秩序と混乱に取って代わられるのではないか。(中略)その社会では、生活はつねにその場しのぎで、個人は生活構造ではなく生活戦略をもつように強いられる。オリガーキー軍閥には豊かな機会が提供され、その他の者には不安と不確実性が押しつけられる。ある意味では、それは五世紀にはじまり後世に暗黒時代と呼ばれる、中世の長い空白期間に似ている。(p54)』

 

 

オリガーキーという言葉は初めて知ったが、権力者の周りのごく一握りの親密な人々のことをさすようだ。例えば、唐の玄宗皇帝の時代だと、腐敗の象徴として憎悪の的になった楊貴妃とその一族とか、今の言葉でいえば、「お友達」ということである。

著者の描く、そうした社会のあり様(僕らは既によく知ってる気もするが)を、もう少し具体的に見てみよう。

 

 

『制度が社会的行為を規定することができなくなると、社会秩序を維持する役割は文化に求められる。制度が社会秩序を支えられない以上、日常生活の秩序を維持する役割は、マクロからミクロへ移される。つまり、最低限の安定性と確実性を確保する役割、最小限の社会秩序を創造する役割は個人へと移動する。そしてポスト資本主義の空白期間におけるポストソーシャル社会で人々の行動プログラムを支配するのは、次のような新自由主義エートスである。すなわち、競争に勝つための自己啓発、市場に役立つ人材の育成、仕事への情熱的な献身、政府が機能しない社会がもたらすリスクを呆れるほど楽観的に受け入れる態度である。(p56)』

 

 

あれあれ、これほとんど今のことやん。「政府が機能しない社会」って、ほとんど日本の現状そのものだし。米国なんかも大体同様に見える。

そうか、「北斗の拳」じゃないが、資本主義社会はもう死んでいたのだ。今は、実は「来世」だったのだ。

 

 

『秩序崩壊時代の社会生活は必然的に個人主義的である。集団的制度が市場の力に侵食され、アクシデントがいつ起こってもおかしくないにもかかわらず、それを防ぐための集団的組織は失われている。誰もが自分を守ることに汲々とするようになり、社会生活の基本原則は「自助努力」になる。リスクが個人に帰せられることは、その防衛も個人に帰せられることを意味する。そのために競争的努力(ハードワーク)と民間保険、それから興味深いことに家族という前近代的な社会的紐帯が求められる。集団的制度が機能しなくなると、必然的に個人の分断は「下から上へ(ボトムアップ)」と進行、社会構造は「市場」の圧力に適応した「上から下へ(トップダウン)」型になる。そして社会生活は、自分の私的な人間関係にもとづいて(その手段をもっていれば)ネットワークをつくる個人から成り立つようになる。そのような知人関係にもとづくネットワークは、横にひろがる社会構造を生みだす。これは自発的契約に似た関係であり、柔軟だが消滅しやすい。現在の変化する状況でそのネットワークを維持するには、「ネットワーク形成」をしつづけなければならない。そのための理想的なツールが「新しいソーシャルメディア」である。これによって、社会関係にそなわる義務的な形態が自発的形態に、市民共同体がユーザのネットワークに置き換えられ、個人のための社会構造がもたらされることになる。(p58~60)』

 

 

もはや「自分の私的な人間関係」にもとづいたネットワークしか意味をもたないような社会(社会とも呼べないが)、それが現状ということだろう。「新しいソーシャルメディア」はそれに適合的だが、それは義務をともなう社会参加や、市民共同体とは異質であることを、シュトレークは強調する。

これは、政治参加というものの決定的な変容にも関わっており、他の個所では、次のようにも言われている。

 

 

『市民的義務としての政治参加は、高度消費社会の文化において、娯楽としての政治参加に変容したのである。(p155)』

 

 

シュトレークは新左翼の出身のようだが、少なくとも「序文」を書いた時点では、社会運動の力にまったく期待を抱かないようになったようだ。

資本主義だけでなく、社会の力そのものも、すっかり死んだというのが彼の認識なのだろう。

そこが、グレーバーのような人とはまったく違う。

 

 

『その背後には過酷な事実が隠されている。すなわち資本主義の発展は、これまで資本主義そのものに制限を加えて安定させてきた装置のすべてを破壊してしまった、という事実である。(p81)』

 

 

ただ、シュトレークの本領は、その徹底した資本主義経済の分析にあるといえる。それは、マルクスローザ・ルクセンブルグ(『資本蓄積論』)、カール・ポランニーという正統的な線を受け継ぐものだといえるだろう。

利潤を求めて無制限に拡大していく資本主義は、民主主義とは、本来矛盾する、敵対的なものであるというのが、彼の基本認識だ。この立場から、たとえばハーバーマスウォーラーステインのようなシステム(資本主義体制)を肯定するような議論は、はっきりと批判される。

つまり、シュトレークの言う民主主義とは、資本主義体制を補完するようなそれではなく、資本主義の暴力に対抗して、それを抑制するような、いわば「民衆の力」の言い換えなのだ。民主主義というものの持つこの両義性のなかで、たとえば韓国の民主化運動も、ずっと葛藤してきたと言えるだろう。

その(資本主義と民主主義との)矛盾が一時的に蓋をされていた戦後の短い一時期(成長期・福祉国家時代)が破たんした後、その破たんをなんとかして覆い隠そうとしてきた過程として、現代の経済政策の歴史を描き出す。その分析には、教えられるところが非常に多い。たとえば、70年代末ごろから多くの国が抱えるようになった財政赤字の真の原因は、新自由主義者たちが宣伝したように福祉予算の増大や公務員の給料の増加などではなく、グローバル化によって大企業や富裕層が低い税率を求めて国境を越えるという事が起こり、それに対応してそれらへの税率を下げざるを得なくなったことにある、という指摘である。では、そのグローバル化をひき起こしたものとは何かと言えば、果てしない拡大へと突っ走る資本主義の本性に他ならないのだ。

 

 

先に書いたように、シュトレークのこの本は、力づけられるようなものではないが、現状を正確に把握し、なすべきことを考えていく為の土台には、十分なりうるものだと思う。

最後に、暗い未来(現状)への予言の極めつけのような文章を、もう一つ引いておこう。

 

 

『システムの統合性も社会の統合性も、ともに回復不能なほど損傷を受けており、その損傷はこれからもますます広がる一方であるように思われる。もっともこれから起こりそうなことは、小規模・中規模な機能不全がたえず蓄積されていくことである。それらの機能不全は致命的とはいえないにせよ、修復される見込みはまったくない。またそれらの機能不全は蓄積されていくうちに、それは個別的対処の限度を超えることになるだろう。その過程で、システム全体を構成する個々の部分は、しだいに相互間の不一致を示すようになり、あらゆる種類の機能不全が増殖し、予期せぬ結果が広がっていき、しかもそれらの因果関係は把握不能になるだろう。不確実性は高まり、予測能力と統治能力の低下(現在までの数十年の間に進行した)とともに、ありとあらゆる危機―合法性や生産性、あるいはその両方にまたがる危機―が次々と急速な連鎖をともなって生じるだろう。それらの危機に対して、目先のことしか考えていない浅はかな対処が無数に行われるだろうが、それもアノミー的混乱をきたした社会秩序の深い部分から日常的に生じる惨事を前にして、何の効果も上げないだろう。(p82)』

 

 

資本主義はどう終わるのか

資本主義はどう終わるのか

 

 

ガタリ『三つのエコロジー』

この本の表題になっている論考は、1989年に発表されたものだそうだ。

当時の世界的な関心事として、ここでは特に三つの出来事が例に挙げられている。それは、チェルノブイリエイズ、それにドナルド・トランプによるNYとアトランティックシティの貧困層の排除、つまりジェントリフィケーションである。

この年には、天安門事件も起き、やがて「壁」の崩壊、日本国内でも、天皇の死、バブル崩壊と、内外で「グローバル経済」時代なるものへの転換(資本主義のモデルチェンジ)が本格化していった時期であったと思う(その「グローバル」なるものの内実が、まさに今、露呈しつあるとも言えるが。)。

さて、そのさなかでの、ガタリの発言。

もちろん難しい本で、詳しくは分からないのだが、目立つことは、ガタリがこのグローバル社会における(ガタリ自身はこの語を使っていないが)マスメディア権力の役割に大きな注意を払っていることである。それは、彼の独特の「主観性」(の生産)の概念に関係している。

 

 

『問題は、悲惨や絶望の同義語にほかならないマスメディア加工の方向にではなく、個人的そして/あるいは集団的な再特異化の方向にむかう主観性の生産装置とはどのようなものでありうるかを検討することである。(p18)』

 

 

『およそありとあらゆる場所で、またいかなる時代においても、芸術と宗教が、「実在化をうながす」ような意味の切断をひきうけるところに成り立つ実在的地図の根城であった。しかし現代にいたり、有形・無形の物質財・非物質財の生産が個人的・集団的な実在の領土の一貫性をそこなうかたちで激化しているのにともなって、主観性のなかに巨大な空洞が生じ、ますます不条理な、どうしようもない事態におちいろうとしている。(p37)』

 

 

こうした不安な状況に直面して、社会は「過去への回帰」という危うい閉じこもりてきな傾向を示していると、ガタリは指摘する。

 

 

『そのなかには、ときに、日本におけるように宗教的信仰とほとんどかわりのないものも見うけられる。移民者や女性、若者、さらには老人に対しても隔離差別的な態度の変化が見られるが、これも同じような思考レヴェルのなかで生じている事態である。主観的保守主義とでも名づけうるこのような現象の再浮上は、単に社会的抑圧の強化のせいだけに原因を帰すべきものではない。それは同時に、社会的作用因子の総体を巻きこんだ一種の実在的けいれん状態に由来してもいるのである。ポスト産業資本主義―私としては統合された世界資本主義という形容の方を好むのだが―は、その財とサービスの生産構造を取りしきる権力中枢部の位置を、しだいに、記号や統語法(シンタクス)や主観性の生産構造の方向へずらそうとしている―わけても、メディアや広告や世論調査などを支配統制するという回路を通して、それを実行しつつあるのである。(p38~39)』

 

 

『資本主義的社会は三つのタイプの主観性をつくり出して、それらを資本主義のために奉仕するようにしむける。すなわち、第一に、給与生活者階級に対応する集列的な主観性、つぎに、膨大な「保証なし」の大衆に見合った主観性、そして第三に、支配的階層に対応したエリート的主観性である。社会総体の加速度的なマスメディア支配は、このいくつかの異なった人々のカテゴリーのあいだにしだいに明瞭なひらきをつくりだしていこうとする。エリートの側は、物質財や文化的手段を十分に享受し、読み書きは最小限にとどめながら、ものごとの決定にかかわる権威と正当性の感覚を身につける。それに対して、従属する諸階級の側では、ものごとに対する投げやりな態度、みずからの生に意味を与えようとする希望の喪失感などがかなり一般的に醸成される。(p59~60)』

 

 

こうしたことは、その後の30年間で現実に起こった。そしてわれわれは、資本主義とのこの「主観性の生産」をめぐる闘いに、概ね敗北してきたことを認めねばならないだろう。

また、当時はまだ無かったSNSというものも、今やこうした支配力の一つになりうるものとして、警戒が必要であろう。もちろん、あらゆるメディアと同様、それを「民衆の手に」という願望を失ってはいけないけれども。

ともあれ、コロナウイルスを奇禍として(「ピンチをチャンスに」?)、ほぼ30年ぶりに支配と搾取の新たなヴァージョンへの本格的転換を図っているかのようにも見える、資本と各国政府に対峙するにあたって、ガタリがここで示している基本的な姿勢を心に刻んでおくのは、意味のあることだろう。

 

 

『あらゆる性質、あらゆる規模の作用因子によってつくり出される資本主義的主観性は、世論の機能を狂わせ混乱させうるいっさいの出来事の侵入から既存の生活を防護するような仕方で加工生産される。資本主義的主観性にしたがうと、いっさいの特異性は回避されるか、あるいはそのためにしつらえられた基準的な装備や枠組の支配下におかれなくてはならない。かくして資本主義的主観性は子供や愛情や芸術の世界とならんで、不安、狂気、苦痛、死、宇宙のなかの彷徨感覚といったような次元に属するものまで、いっさいのものを管理しようとする。(p42~43)』

 

 

『再特異化の主観性が欲望や苦痛や死といったようなすがたをまとった有限性との遭遇を真正面からうけとめることができるようにならなければならない。(p70~71)』

 

 

三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)
 

 

カール・ポランニー『経済の文明史』

 

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)

経済の文明史 (ちくま学芸文庫)

 

 

カール・ポランニーが、市場メカニズムに支配された19世紀以後の自由主義的資本主義を批判して、「労働、土地、貨幣」の三つの擬制(フィクション)ということを言ったのは、よく知られている。

この三つは、産業資本主義(それが自由主義的資本主義、つまり市場メカニズムの支配を要請したのだ)の基盤をなす条件のようなものだが、あらゆるものを商品化する自由主義的資本主義は、それら「基盤」をも「商品化」してしまう。だが、それらは本来、商品化できるはずのないものである。だから、それを擬制(フィクション)としての商品と呼ぶわけである。

ポランニーは、労働とは実際には人間のことであり、土地とは自然のことだとも言っている。

労働(人間)、土地(自然)、貨幣という三つの基盤を商品化して破壊するという行為によって、市場メカニズムに支配された経済システムは、社会(そして自然)に甚大な破壊をもたらす。ポランニーの思想を、このような警告として読むことは、現在、とくに求められることだと思う。

ポランニーが、このような考え方を作っていったのは、第一次大戦後の、グローバルな資本主義の拡大に伴う重層的な破壊が顕著になった時期だった。それは、戦災や流行病の世界的蔓延のみならず、戦時の信用経済の肥大が原因となった大恐慌からファシズムの台頭、そして第二次大戦という時々の現象を追ってはいたが、こうした一連の破壊の根底にある力が何であるかを、ポランニーは常に見つめ続けたわけである。

彼の思想が、近年また多くの人に想起されたのは、2008年のリーマン・ショックの時だった。この時は、「労働、土地、貨幣」のうちの貨幣に焦点があてられたわけだが(実際、ポランニーの貨幣論は多くの人に影響を与えただろうが)、今回は、残りの二つについて特に考えざるをえないだろう。だがもちろん、これら三つの要素の根底にある破壊の原動力は一つなのだが。

たとえば1944年に書かれた次の文章を読むとき、ポランニーの根源的な洞察の鋭さに、あらためて震撼せざるをえない。

 

 

 

市場メカニズムが人間の運命とその自然環境の唯一の支配者となることを許せば、いやそれどころか、購買力の量と用途の支配者になることを許すだけでも、社会の倒壊を導くであろう。なぜなら、商品とされる「労働力」は、この特殊な商品の担い手となった人間個人に影響を及ぼさずには、これを動かしたり、みさかいなく使ったり、また、使わないままにしておいたりすることさえできないからである。このシステムは、一人の人間の労働力を使う時、同時に、商札に付着している一個の肉体的、心理的、道徳的実在としての「人間」をも意のままに使うことになるであろう。文化的制度という保護の覆いを奪われれば、人間は社会に生身をさらす結果になり、人間は、悪徳、倒錯、犯罪、飢餓などの形で、激しい社会的混乱の犠牲となって死滅するであろう。自然は個々の要素に還元されて、近隣や景観はダメにされ、河川は汚染され、軍事的安全は脅かされ、食糧、原料を産み出す力は破壊されるであろう。最終的には、購買力の市場原理が企業を周期的に倒産させることになるであろう。というのは、企業にとって貨幣の払底と過剰が、原始社会にとっての洪水や旱魃と同じくらいの災難になるであろうからである。たしかに、労働市場、土地市場、貨幣市場は市場経済にとって本質的なものであることは疑いない。しかし、ビジネスの組織だけでなく、社会の人間的、自然的実体が、粗暴な擬制のシステムという悪魔の碾臼の破壊力から保護されなければ、いかなる社会も、そのような粗暴な擬制のシステムの力に一時たりとも耐えることはできないであろう。(「自己調整的市場と擬制商品―労働、土地、貨幣」)